先日、沖縄県立図書館で復帰直後の新聞をチェックしていたところ、とある市議の訃報記事に目が留まりました。昭和50年(1975)3月24日付琉球新報夕刊に掲載された小さな記事ですが、ブログ主にとっては驚きの内容でしたので該当部分をコピーして持ち帰りました。試しに同年同日の沖縄タイムスにも同様の訃報記事が掲載されていましたが、今回は琉球新報の記事を紹介します。読者のみなさん是非ご参照ください。
昭和50年3月24日付琉球新報夕刊3面
玉城克也氏 /(沖縄市議会議長)は二十二日午後十時半心臓マヒのため具志川市の中部病院で死去、五十七歳。本部町健堅の出身。
玉城氏は昭和十七年興亜専門学校卒業後、昭和三十三年コザ市議会議員に初当選いらい連続十七年間市会議員を勤め、その間、コザ市時代に二代、四代、七代、沖縄市になってからも初代、二代と市会議長を歴任。地方議会と地方政治に貢献した。沖縄市議会は二十四日午前十時から本会議を開き、玉城氏の哀悼決議を行う。自宅は沖縄市安慶田四六一番地(沖縄)
一見するとよくある訃報記事ですが、この市議さんは以前当ブログで紹介した「喜舎場朝信を救う会」の主催者で、「喜舎場くんは善良な市民だ」のパワーワードの生みの親です。昭和 38年(1963)2月20日付琉球新報6面に「喜舎場朝信を救う会」に関する特集記事があり、試しに掲載された読者の声の一部を書き写しました。是非ご参照ください。
「喜舎場を救う会」に市民の怒り
通り会は迷惑 『喜舎場を救う会』と言います会は初耳であります。私は直ぐ隣りに住んでいますが、全然聞いたことはない。
私から致しますと玉城氏個人の案ではないかと疑いたいほどです。そのことで隣、近所および通り会の方々は迷惑をしている実情であります。そのことは喜舎場氏となにかの縁のつながりがある一部の者たちの問題であると思う。
玉城氏に対しても本人の人格を疑いたいのである。それから喜舎場氏が暴力団の幹部であることは疑いを得ないのである。
私が知っている限りでは1961年の11月ごろから暴力団の一味と思われる連中がいつも昼夜を問わず出入りしていたことは、私だけでなく付近の住民がじゅうぶん知っていることである。
特に昨年の11月ごろよりは喜舎場氏宅の周囲や宅地内まで警戒人が昼夜20人近く警戒しており昔の城の門番みたいな警戒ぶりで市民もそこをさけて通るほどでありましたが、そのようなことはいったんなんの意味でしょうか、常識にまかすほかはないのである。
また今までの新聞を見ますとわざわざ日本より殺し屋まで雇ってきて、人の生命まで奪うということは私たち一般民として理解に苦しむのである。このような行為者に対しては一日も早く社会よりほうむるべきであり、ましては嘆願するどころではないと信ずるので全市民が団結して暴力の根絶、追放すべきと強調したい。(コザ市字照屋92・商業・仲村光一 33)
市議をやめて、わびよ 市議会の副議長ともあろう者がほかのことならいざ知らず、暴力団狩りで逮捕されている喜舎場の嘆願書に署名捺印して、彼を擁護し、慰めて激励するという行為は全く社会を無視し、市民を愚弄するにも等しい。厚顔、非常識極まる者であるときめつけられても仕方あるまい。
本土から殺し屋を雇うような人間に、同情すべきものは何もない。暴力団を助長するばかりであり、「喜舎場さんは善良な市民だ」というが、ほんとの善良な市民が今に泣き寝入りしなければならない時がくる。悪い芽は早いうちに刈り取るべきである。玉城氏に人間として市議としての良心があるならば、市議を辞めて社会に詫びなさい。(コザ市諸見・玉城)
玉城副議長を許すな 喜舎場が暴力団か否かは、しばらく置くとして彼が数年前那覇の飲み屋で女給を何の理由もなくなぐり殺し、その後、金と勢力を集めてコザの暴力団の親分になった。
近頃は年下を使って那覇派の親分又吉を与那原飛行場に誘い出して十数人で闇打ちにし、その他、桜坂の殺人事件、吉原組合長の襲撃事件、十貫瀬の傷害暴行事件、殺し屋を技術導入しての又吉襲撃事件など暴力事件の黒幕が喜舎場朝信なのである。
この事実はやがて法廷で公表されるであろうが、こんどの警察の手入れの結果、押えられた手りゅう弾、ピストル、日本刀、カービン銃、短刀など凶器多数を発見されたことや、コザ、那覇の暴力団対立当時、常時喜舎場の家には数十人の暴徒がなぐり込みに備えて待機し、暴力団の動きの中心部だったことは事実である。
コザ市の副議会議長の玉城氏や具志堅議員は暴力団の喜舎場とは同郷の本部出身であり、喜舎場がどのようにしてアブク金をかき集めて暴力団の親分にのし上がったか、また彼が今まで物事を解決するのにどれだけの人を泣かせて暴力を行使したか。よく知っているはずである。それなのに暴力団を救う会を結成するに至っては住民を余り(にも)馬鹿にした暴挙ではないのか。もう少し理性と人間性だけはあってほしいと思う。
政治信念も思想とてない人を議会に送ったコザ市民も今さらながら寒心させられるが、それにもましてその暴挙を敢えてする市会議員をわれわれは決して許してはならないと思う。
われわれは次の選挙のためにもこの二人の名前を絶対に忘れてはならない。(那覇市首里・学生・上間稔)
一部事実誤認もありますが、玉城克也氏が当時世間から激しく非難されたことがわかります。それに対して同年2月25日に琉球新報において玉城氏からの反論記事(当ブログ内”「喜舎場朝信を救う会」について調べてみたよ”を参照ください)が掲載されてましたが、ブログ主が驚いたのは、当の玉城氏がこの件に関して副議長を辞任するどころがその後も市議を長年勤め、しかも市議会議長も長年勤めていた事実です。
昭和の常識と一言で片づければそれで終わりですが、市議を長年つとめた事実から推察できることは、当時のコザ市民は暴力団の幹部と思わしき人物と市議との交際を本音では気にしていなかったということです。つまりコザ派(あるいは山原派)の連中は社会から”必要悪”と見做されていたわけで、現代との常識の余りの違いに少々のことでは驚かないブログ主もこれには心底びっくりしました。
改めて現代の常識で過去の事象を判断してはいけないんだなと痛感しつつ、今回の記事を終えます。