(続き)今年1月27日未明に起こった “高校生が大けが(失明)した案件” の報道に連動して、沖縄署では今月2日から騒動を未然に防ぐべく、警備を強化していますが、7日現在も平穏な状態が続いています。これによって沖縄県警は “ほとぼりが冷めた” として、騒動を起こした連中の大量検挙に踏み切る環境が整ったと見做していること間違いありません。
この案件は、ブログ主が思うに、職務中に少年に大けがを負わせた巡査に対する非難よりも、沖縄署前で騒動を起こした連中に対する苦情のほうが多かったはずです。その傍証として、今月2日に沖縄タイムス社が “特大スクープ” として報じた案件に絡んだ 「読者の投稿」が7日現在でも掲載されていません。つまり沖縄タイムスにとって県警に上手に扱われただけでなく、購読者の反応もいまいちという、いいところなしの報道結果となってしまったわけです。
ではなぜこのような結果となったのでしょうか。ブログ主が思うに、沖縄タイムスの報道姿勢に問題があり、それはつまり “予断” を持ってこの事件を報じ続けたからです。その予断とは、
1.事件当初から、高校生は巡査の暴行による被害者と見做し続けた。
2.権力は隠し事をするのが常套手段なので、沖縄県警は 公正な捜査をしない。必ず身内びいきの結果を提示する。
あたりになりましょうか。試しに、沖縄タイムスの記事は “見出し” だけを読むと、「巡査の暴行によって高校生が右目に大けがを負わせ、失明にいたった」との印象を受けますが、記事本文を精読すると、「巡査の職務行為中に高校生に大けがを負わせ、失明にいたった」ことが分かります。つまり、題字と記事本文に微妙な “乖離” があります。
印象的なのが琉球新報の題字では一度も使われなかった「暴行」あるいは「警官暴行」という単語を何度も使用していることと、識者コメントに「身内びいきの書類送検」との題字をつけ、沖縄県警が何か隠し事をしているのではとの印象付けを試みている点です。こういう場合は、 “予断” を持って事件に接し、そして自分たちに対して好ましくない結末が生じたときに起こります。
この事件は、タイムスと新報の両記事を読み比べると、共通点として、
1.巡査が「わざと」高校生に大けがを負わせた事実はない。
2.職務行為の結果、高校生に大けがを負わせたが、それが「故意」か「過失」かの判断が極めて難しかった。
3.ほかに物的証拠がなかったため、捜査と結果報告に時間がかかり、その結果、高校生とその家族から「謝罪が遅い」との批判を受けた。
4.ただし「しっかりと捜査されたことに安心している」とコメントしているとおり、高校生とその家族は、県警の捜査に対して「隠し事がない」ことに理解を示した。
になります。琉球新報の場合は、題字と記事本文に乖離はありません。高校生とその家族に対しての謝罪が遅れた件については批判的も、両者の立場を理解し、慎重に記事をまとめた形跡があります。つまり新報側は可能なかぎり “予断”を排して、事件に向き合ったのです。そしてこれこそが “社会の木鐸” たるマスコミが本来取るべき立場であることは言うまでもありません。
今年の選挙イヤーで沖縄タイムスと琉球新報の現地取材班は実にいい仕事をしました。ブログ主は沖縄知事選と那覇市長選における取材班の特集記事をすべて写本しましたが、これがエースの仕事かと記者のレベルの高さに深い感銘を受けてます。だがしかし、それに対するひろゆき報道と今回の案件のあまりのレベル差に落胆したのもまた事実であり、それはすなわち、優秀な記者とその他大勢のテリトリーが社内で確定している訳であって、
沖縄タイムス社は見えざる “カースト” によって運営されている
という、ついうっかりヤバいことに気が付いたブログ主であります(終わり)。