ついうっかりじわじわくる “神作文” を見つけてしまった件

以前、当ブログにて「おかあさんありがとう – 「母の日」の入選作文と図画」と題して、昭和39年(1964)5月8日付琉球新報に掲載された小学生の作文を紹介しました。その後、ブログ主はついうっかり、それを超える “神作文” を見つけましたので、(母の日ではありませんが)全文を紹介します。

昭和35年(1960)5月8日付琉球新報夕刊04面に「森永母をたたえる會入選作文」との見出しで、全琉から募集した作文の中から「森永賞」と「金賞」が掲載されていましたが、金賞作品「私のお母さん」が実に素晴らしいの一言でした。

まず、出だしの一行で読者の心をつかみ、長文にも関わらずお笑いエピソードを交えた軽快なテンポで非常に読みやすい文章構成、かつ最後は家族の絆の強さをアピールする美談で〆るあたり、初めてこの作文を目にしたブログ主は「こいつ天才か!」と驚愕した次第であります。おそらく現代の小学生でもこれほどの作文は書けないのでは、そしてブログ主も(このレベルの文章を書けと言われたら)ちょっと厳しいかなというのが正直な感想ですが、

だからじわじわくるのです。

ためしに読者のみなさん、全文をご参照ください。

私のお母さん(金賞) 仲里小校五年 大城真行

ぼくの母はとてもデブです。重さは百斤をこすといってじまんしています。どんな仕事をするにものろのろとおそいので、いそがしい時、大きな尻をふりふり、あっちに行きこっちに行きするようすは、とてもおかしい。でも母は平気で何とも感じないのか、いつもえがおである。

時々茶の間で一休みしようとすわっている母に、父が「ゆをさしてくれ」「火を入れてくれ」というと「ヨイコラサ」と、かけ声はおおきいが、両手をついておもたい尻をもち上げる姿は、ぼくの大すきな若乃花が、相手にとびこむ前、こぶしを地につけたかっこうです。こんな時、父は母のかっこうがおかしいと見えて、にやりと声を出さずに笑うことが多い。そばにいるおじいさんは顔を外に向けて、父ににた笑いで、鼻すじのまん中にしわをよせて笑っているのがやはり声は出さない。三人のようすうが、ちょうどまんがのようにあるので、勉強しているぼくが、こらえきれずに、わあっとふきだすと、三人とも大声出して笑いだします。でも母な平気なもの、ちっともおこりもせずわっはと高い声で笑っている。

母は力仕事は父にまけない。さかなとりや、泳ぎの外は何でも父にまけないぐらいである。まきをわったり、いもほり、田植となったら、ローマチスで腰がちょっとまがった父の二人分もやります。

だが、せまい台所で顔をまっ赤にし、あせをながしながらごはんたきや、すわったりするのは見たくもないくらいです。大きな尻を、この柱にぶっつけ、あのかべにつきあたったりしているのは、見ている僕もはずかしいくらいです。でも母はちっともなんぎらしくはない。母は急にめまいで休むことがある。その時は、台所の仕事は父と僕がやることが多い。又父は時々腰がいたい時は母に代り、台所の仕事は自分でやり母を畑にやることが多い。母は野ら仕事がすきである。

僕は小さい時から台所の仕事をいつもさせられた。ごはんたき、おかずつくり、豚のえさ、馬の水をのましてやったりするので、母は僕を大へんかわいがってくれます。おとなりへのおつかい、お店の買物、いつまでもすぐ僕を呼ぶので、おじいさんは、「勉強する子どもに仕事をいいつけてはいけない」と、大声で母をしかることもある。でも僕はでぶでぶ太った母の体を道から歩かしたくないので、何でも聞いてやります。いもあらいや朝ごはんのしたく、弁当づめ、母のげたのはなおをつけたり、母のかせいをするのが、僕にとっては一番楽しいのです。

僕の母はよその家に用事に行ったら、それこそ大へんです。どんなことがあっても早く帰りません。たぶん重い体だからすわったら立ちにくいかも知れません。そんな時、父はすぐおこりちらし、僕までしかるように、いない母をなんやかやしかります。僕が呼びに行くと、「あっと」思い出したように急いで帰り、大あわてで、仕事を始めます。こんな時母が仕事をしているのが気の毒で僕はすぐかせいに行きます。

母が一年中で一番喜ぶ日は、僕たちの運動会、学芸会、卒業式の日です。それに僕の試験を見る日です。僕が四年生の時、久米島全島の陸上競技大会に、学校選手として、五、六年の中に僕も選ばれたので、母は非常に喜び、遠い高校のグラウンドまではるばる応援しに来てくれた。僕は涙が出るほどうれしかった。母は小学校時代選手として、どこへ行っても一番だったとよく聞かしていました。弟のまさじ君は勉強はなにもしらないが、運動会のかけ足だけはいつも一番になり母を喜ばします。

姉は体が弱くて何もできないのは残念だが、僕は姉の分まで手伝いをしています。でも僕が大きくなったら、一日でも早く姉の病気をなおし、母を喜ばしてやろうと思います。(昭和35年5月8日付琉球新報夕刊4面)