今回は琉球新報社編『ことばに見る沖縄戦後史 – パート1』から吉原の記事全文を掲載します。いまでこそすっかり寂れてしまいましたが、かつては沖縄を代表する特飲街として有名でした。
設立当時はあまりにも街が発展しすぎて犯罪が絶えず、しかも派出所も設置されていなかったため、山原派のこわいお兄さんたちが自警団として我が物顔で振舞っていました。ちなみに新城善史の自宅も吉原にあります。話がそれましたがアメリカ世時代の雰囲気が伝わる琉球新報社の吉原に関する記事を是非ご参照ください。
戦後特飲街として登場 – 特殊婦人は八百五十名
敗戦直後、人々が虚脱状態から立ち上がって周囲を見わたしたとき、そこには荒涼とした飢餓戦線があった。初めに飢えありき – 。その社会条件下に、人々は”ヤミ”や”戦果”に走った。生活苦からやむなく”売春街”に身を投ずる特殊婦人たちもいた。
時がたつにつれ組織化され、社会構造のゆがみも手伝ってふくれあがり、各地で米兵をはじめ民間人相手の売春街が形成された。その中で、美里村の「吉原」は、名称から受けるイメージも手伝い売春街の象徴的存在として宣伝された。金とセックスと暴力 – ここを舞台に、人間の欲望がダイナミックに渦巻く。来春の復帰による”世替わり”とともに吉原もその性格の変容を余儀なくされている。
コザ市の生誕と無縁でない
美里村の吉原が”特飲街”として登場するのは一九五〇年から。それ以前は一面、田畑、原野の広がる田園地帯。至るところに米軍から放出されたスクラップが捨てられ、うず高く積み上げられていた。それがいま業者数二百、特殊婦人八百五十人をかかえる”紅灯の巷”。その名称も沖縄の売春街の代名詞のように定着した。吉原の生誕と発展、それはコザ市の生誕と無縁ではない。当時の物情騒然とした時代を背景に、人々は「ギブミー」、「戦果」などのことばにみられるように物心両面で飢餓状態にあった。
絶えぬ米兵の婦女暴行
一九五三年 – 。現城間学園長の城間盛善氏(六七)は越来村長に当選した。嘉間良地区の収容所を中心に町を形成していたコザ市は引き揚げる人が多く、こんどは越来村と変わって間もないことである。人々は嘉間良のくぼ地の天幕小屋にひっそりと暮らしていた。ところが開放地、センター区に駐とんしていた部隊から米兵が民間地域に侵入、婦女暴行事件が続発した。米兵の姿が見えると、各戸でガーン、ガーン鐘を打ち鳴らして警戒する始末。それでもスキを突いて暴行事件が絶えない。そこで城間村長は駐とん部隊長に軍紀の粛正を申し入れ、民間地域に隊員を立ち入らせないよう抗議した。だが、これからが大変。
BCセンター生まれる
民間地域への立ち入り禁止に怒った米兵があばれ出し、民家を焼き打ちするほか、村長室にも発砲、MPが二カ月近くも村長を護衛するものものしさ。ホトホトこりた城間村長は中部市町村会(会長=故・渡嘉敷親睦氏)に図って対応策を話し合った結果、米軍の駐屯しているセンター区を開放してもらい、そこに「ビジネス・センター」を新設することで落着した。特殊地域の設置については、それに先立ち一九四九年、コザ市の婦人会が嘉手納航空隊の隊長に陳情している。
遊技場、ショッピング・コーナーを設け、そこだけに米兵の立ち入りを限定する構想だ。もちろん健全な娯楽場として出発した。それが基地相手の一大センターに急変していったのである。
食うために精いっぱい
ビジネス・センターがなぜ特飲街に形をかえたか。センターそのものが、米兵の慰安を目ざしたという性格もさることながら、地元では食うために精いっぱいだったことだ。この二つが、吸引力となった。「わずか十二、三歳の少女に米兵相手の売春行為をさせた」という話は多く耳にする。
そのころ島マスさん(七一)=コザ市胡屋101=は、実務学園の前身というべき一八歳未満の問題少女たちを収容、更正させる「一時保護所」を経営していた。ほとんどが戦争みなし児で、なんと「一杯の盛りソバ」につられ転落したのだった。島さんの話はこうだ – 。
そのころ那覇市に「ビックリソバ」というものがあった。びっくりといっても、単にドンブリにソバを山盛りしただけのこと、いわば人々の飢餓感に量の魅力を対置したわけ。それが「腹いっぱい食べてみたい」という人々の欲望もあってうけた。そこに旧三和村あたりの戦争孤児たちがゾロゾロ集まった。「ソバ食べたい?」と話しかける。子供たちは肉親を失い、虚脱状態でのやさしさが身にしみた。ソバを食べさせて喜ばせたあと「おじさんと一緒にいかないか。子守りをするだけでいいから、もっとおいしいのを食べさせてあげる」と少女が誘われる。行く先は天幕小屋で、そこにはベッドが一つ置いてあるだけ。その夜から、いたいけな少女たちが、自分の二倍以上もある米兵たちを相手に”人身供養”の犠牲にされた。
米兵の立ち入り地域ということで、センターを舞台に、いつの間にか特殊婦人が集中。それにつれセンター通り、八重島、照屋十字路へと特飲街が規模を広げていった。
三十軒で”吉原”開設
いまはさびれたが、八重島は花やかな存在で、当時は米兵も沖縄人もそこを中心に飲みまわっていた。だが、占領意識まる出しの米兵と、気のすさんだ若者たちとのトラブルが絶えなかった。業を煮やした照屋地区の業者およそ三十軒が”転進”を計画、移り住んだのがいまの吉原である。
一面に田畑の原野が広がる。そこはまた、米軍のスクラップ捨て場でもあった。いまでも掘り起こすと車のエンジンやハンドルが出てくるほど。人々は地主組合から土地を一括して借り受けた。坪(三・三平方メートル)辺り八 – 十セント、多くが瓦ぶきの家を建てた、一、二年後には転入する業者がふえ、四十四、五軒にもなった。”置き屋”– 。吉原のそれは、全くの管理売春。表向きはカフェー、バーになっているが、話がまとまるとその女性の部屋に通される。玄関に二、三人並んだ女を客が選ぶという手だ。かつて東京の下町の歓楽街からイメージをとってつけられたのが「吉原」だ。折からセンター通りの米兵によるトラブルにへきえきしていた沖縄の人たちが足を運ぶようになる。
狭い土地に農業で細々と生計を立てていた人たちも集団売春街の形成にくみ込まれていく。業者のAさん(四九)は、その動機を次のように述べた。
「子供たちの教育にもよくないし、元々そういう商売をやろうという気持ちはなかった。雑貨店と養豚業をしていたのだが、豚価は下落するし、とどのつまりは手っとり早いこの商売に踏み込むことになった。小学校以上の子供たちには気をつかい、他に間借りさせて勉強させる。客が出入りする午後九時以後は絶対家に置かない」
生活様式にも特殊社会のふん囲気が投影するわけだ。
しのびよる暴力団の手
こうして吉原は六〇年代に発展期を迎える。家を改、新築する業者も多く、わずか八千二百五十平方メートルの面積にカフェーをはじめ、バー、料亭がひしめいた。那覇の十貫瀬がソバつきで一ドルと宣伝されていたこと、二、三ドルと高かったが、十貫瀬のような陰湿さはなく、結構、客足をひいた。
そのころから暴力団の”黒い手”が積極的にしのびよる。六二年八月、吉原風俗営業組合長の金城力さんが組織暴力団に襲われ、ナワ張り料を強要される傷害事件をキッカケに血なまぐさい事件が相つぐ。こうした一連の事件を六五年の新聞紙上から拾ってみると、
▽組合長経営のカフェーに暴力団かくまう、吉原暴力団支部結成流れる(9・14)
▽暴力団を逮捕、市民にいいがかりをつけて乱暴(同)
▽若い男の他殺死体、吉原特飲街裏、キビ畑で頭、顔にキズ(9.14)
▽暴力団員逮捕、吉原で傷害事件(10.12)
▽暴力団員四人あがる。吉原、バーのマダムなぐる(11.8)
▽山原派暴力団員を逮捕(66.8.8)
逃亡一回、連れ戻されて一カ月だという女性は八百八十ドルの前借金をかかえていた。以前、ある店でかかえていた前借金五百ドル、ここにきて化粧品、着物の新調に百三十ドル、子供の養育費六十ドルを店が立て替え、さらに逃亡の連れ戻し費用二百ドルを上積みされたものだ。こうした”逃亡者”のつれ戻しなどが格好の暴力団のアルバイトになるわけだ。
一九六五年ごろから斜陽のかげり
吉原は、沖縄戦後史のなかで特異な位置を占めてきた。そのイメージは沖縄の特飲街を象徴した。そこに起こるさまざまな事象は”沖縄の恥部”として浮き彫りにされた。だが、六五年ごろを頂点に、吉原にも斜陽のかげりがしのび寄る。
さらに復帰不安、売防法の制定などで衰退に輪をかける。だが、売防法の制定にたいし業者は「社会保障制度を並行して進めてもらいたい」「前借り金は政府で責任を持って回収できるように措置してもらいたい」と要望。「法の制定に反対だ」「どうしても制定するなら政府が前借り金を返済してほしい」「月平均百ドルの収入のある仕事を保障してほしい」と特殊婦人たち。吉原はおし寄せる時代の”新しい波”に影響されて変わった。ある業者は「最近は客足も鈍りがち。夏季と年末のボーナス。シーズンに色づくていどだ」とボヤく。かつての花やかさはみられない(1971年3月)
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