ブログ主はここ数日にわたってこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、実に気になる新聞記事を見つけました。昭和49年(1974年)9月23日付の琉球新報において組織暴力団「沖縄連合旭琉会」に関する記事が掲載されていましたが、その中に ”富永清” の名前を見つけました。これはもしかして彼の名が初めて県内2紙に登場した記念すべき記事の可能性があり、今回当ブログにて掲載します。ヤクザネタ好きな読者の皆さん、是非ご参照下さい。
暴力団内部で集団リンチ – 旭琉会
那覇署が8人を緊急逮捕
組織暴力団「沖縄連合旭琉会」内部の組織同士の集団リンチ事件を内偵していた那覇署刑事二課は、県警本部捜査二課の応援を得て二十二日早朝、旭琉会事務所やアジトなど十カ所を一斉手入れ、旭琉会事務所や幹部八人を暴力行為、傷害の疑いで緊急逮捕するとともにヌンチャク、木刀、水中銃など百六十七点にものぼる証拠品や凶器を押収した。組織同士感情的なもつれから集団リンチに発展したものとみられているが事件の詳細はまだ不明。同会は、復帰直前の四十六年十二月、本土暴力団の沖縄進出をはばむため地元暴力団が大同団結して結成して以来、内輪もめはなかっただけにこの事件をきっかけに内部での㔟力争いから血で血を洗う暴力団抗争に発展する恐れもあるとして県警では総力を挙げて捜査している。また、県警では「凶器使用犯罪取り締まり」期間中であることからこの事件の捜査をきっかけに暴力団が隠し持っている銃器類などの押収にも力を入れている。
バットでめった打ち
凶器類も押収 – ヤクザ映画を地でいく
那覇署のこれまでの調べによると、旭琉会内部での集団リンチ事件は、さる二十日午後三時から同五時の間に同会組員の七人を那覇市西一の十五の十五、旭琉会事務所やアジトに連れ込んで野球用バットやこん棒でめった打ちにしていた。リンチの発端はリンチを受けた被害者の七人が同会幹部を酒場で殴ったとこが原因のようだが、被害者が「身内のこと」としてしゃべりたがらないため、はっきりしたことはわかっていない。しかし、事務所やアジトのリンチはバットやこん棒でさんざん殴った後、被害者の局部をペンチではさみ、ねじまがるなどかなりむごたらしい手段でリンチを加えていたようだ。
この日の一斉捜索には約百五十人もの刑事が投入され、事務所、アジト、加害者の自宅など十カ所で午前七時を期して行われた。その結果、こん棒二本、モリ三本、水中銃一本、木刀四本、米軍のナイフ一本、ヌンチャク二組などの凶器類のほか、同会名簿など百六十七点もの証拠品が押収された。那覇市松山のアジトからはホルマリンづけの小指も押収された。この小指は第二関節から鋭い刃物で切り取られており、ヤクザ映画を地でいくまねをやっていたようだ。
組織暴力団「沖縄連合旭琉会」はその連合の名の通り、これまで県内で那覇派と山原派に分かれて対立していたが、復帰直前の四十六年十二月、本土の広域暴力団「山口組」などの沖縄進出をはばむために那覇派と山原派が手を組んだ沖縄最大の暴力団。現在、県下に約八百余名の構成員がいるが、那覇派、山原派との系列意識は根深く、それだけに両派の内部対立で組織の指導権争いは激しいようだ。旭琉会は、こうした両派の感情をやわらげるために名誉会長を頂点に置いて飾り、山原派と那覇派の親分が同格の理事長となって組織を動かしている。このため、内部での指導権争いが今回の事件をきっかけに火を吹く可能性もあり、警察は緊張している。
逮捕者は、今後の捜査でさらにふえる見通しだが、二十二日逮捕された暴力団員は次のとおり(以下略)
引用元:昭和49年9月23日付琉球新報9面
当時の新聞記事の一部を書き写しましたが、この中に逮捕された旭琉会幹部を含む8人の顔写真や役職および現住所が掲載されていました。その顔写真は以下の通りです。
ブログ主が確認する限り、富永清(現旭琉會会長)の顔写真や役職など(理事)が県内マスコミに公開されたのはこれが初めてかもしれません。ちなみに住所まで公表されていて、当時の彼は沖縄市山里に住んでいたことも分りました。
昭和49年9月20日のリンチ事件に関しては、大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』(晩星社)に掲載された抗争年表によると、旭琉会内部の事情によって発生したリンチ事件であることが分ります。
74.09.17 上原勇吉ら上原組が旭琉会理事会で謹慎処分を受ける。
74.09.20 那覇波の上の路上で旭琉会幹部らと上原勇吉ら上原組員がケンカ。その翌朝、旭琉会組員は上原組員を拉致して集団リンチ。
74.10.24 上原組員2人が、宜野湾市の高級クラブ「ユートピア」で飲んでいた旭琉会理事長・新城喜史(当時45歳)を射殺。
引用元:大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』11㌻ 沖縄ヤクザ抗争年表より
ちなみに山平重樹著『旭龍 沖縄ヤクザ統一への軌跡 – 富永清・伝』(幻冬舎アウトロー文庫)によると富永理事は直接リンチには関与せず、むしろやりすぎを叱責したとの記載がありました。彼が逮捕されたのはどうやら巻き添えを食った感がありますが、このリンチ事件における行き過ぎが新城喜史旭琉会理事長射殺事件、および第四次暴力団抗争の伏線になってしまったのです。
第四次暴力団抗争はちょっとしたきっかけが予期せぬ大事件に発展した典型例ですが、(直接関与はしていないものの)そのきっかけとなった事件に “富永清” という名前があった事実は実に興味深いところであります。しかも彼は新城喜史旭琉会理事長射殺事件に際にボディーガードとして現場に同行していましたので、もしかするとこれらの事件に遭遇したことが彼のヤクザ人生の大きな転換点になったのかもしれません。(終わり)