あの頃を語る 安村つる子女史の思出話 その1(原文)

安村つる子女史は今は亡き夫良公氏との間に四女を擧げ目下首里市金城町に居住され子妹の敎育に專念されつゝある首里第一小學校に奉職中なりしも今學期を機會に敎育界を勇退されることなつた。本縣最初の女敎員で女子敎育界の元老である。今仝女史を訪ふて當時の敎育况の輪廓や挿話を描いてみる。

まあ大變なことになりましたね私なんか何も分りませんよ。何も取柄のない纏りのつかない話ですが、それでもよければ…………。私が小學校に入學したのが日清戰役當時でして、その時の學校は記念運動塲にありまして小學校女子部といつてゐました。學友は源河さんの奥さんや嵩原さんの奥さん等です。小學校は尋常四年までゞして高等科は二ヶ年でした。私たちは高等科の最初の入學者でした。私が高等科に在學中に男子師範學校内に女子講科といふものが設立されました。女子敎員の養成の目的で募集されました、丁度募集人員が十名のものでして志願者は十八名位でした。試驗がありましてね、その試驗がとても變なんですよ。二階の方で職員がズラリと並びまして一人ヽ呼びだされて珠算、筆算讀本朗讀など其他全學科に亘つてゐましたが十六の春を迎へたばかりの私が皆と一緒に入學許可になつたことは實に夢の心地でした。今考へるとよくもあんな試驗を受けたものだと思つてゐます。

今なら中等學校に入學することに對しては別に好奇な目をみはることもありませんが私の入學當時は箱入娘禮讃時代でして女子敎育に對する世人の見解も至つて輕薄ものでした。十名の合格者中九名は他府縣の方で私一人が縣の者なので心細い事限りなかつたものです。自分一人が縣人なのですから私は他の人々と思ふやうに接し得なかつた点もありましたのですが……でも段々慣れて來ました。服裝も言葉も異つてゐるので先生方も「あの人は異分子だ」といふやうな見方を持つてゐたかと思はれます。でも女ですから心には思つてゐたかも知れませんが言葉には對に出してゐませんでした。

十六の春でしたがウシンチーをして別に恥しいとも思ひませんでした。そんな姿で毎日登校してゐました。學校の方でも別に何も言ひませんでした。それですから一緒にどこかへ出かける時も私は何んだが皆と服裝が異ふものですから外からみるとお供としか見へなかつたかも知れません。体操の時などは同師範學校内に男女兩方がゐるものですから私たちは男生徒に体操を見られるのが嫌ひでして隔離されたところで見へないやうに体操をしました。私はウシンチーの上から帶を締めてやつたものですが窮屈なものでした。殊に冬などワタヂンの上から帶をしめてやるのですから余程不格好な姿でしたでせう。そうして隔離されてゐた体操が二十年位しては堂々と運動塲にも出塲しました。

男子との交際も對にさせなかつたものです。男子禁制の敎育でした仝じ學校内にゐるのですが自分の親類が男子部にゐても全然分らないと云ふやうなものでした。何時に登校したとか何時に下校したとかチヤンと印を押してゐたやうにとても嚴重なものでした。(昭和7年4月3日付琉球新報‐切り取り史料)