あいろむノート – 方言札(4)

(続き)今回は、現時点で蒐集した史料を基に、ブログ主なりに昭和15年(1940)1月の「方言論争」について説明します。というかこの案件、「はじめはニワトリのつもりが、だんだんアヒルになった。めまぐるしいので私自身とまどった」と吉田嗣延氏が証言している通り、単なる座談会での討論がマスコミ上に登場するや、一気に火がついた感があります。

ハッキリいって、討論は(標準語と方言に対する)お互いの立場の違いを述べただけに過ぎないのです。両者の主張を大雑把にまとめると、

柳氏:標準語を学ぶのは勿論大切なことだ。ただしそれがために沖縄の方言をおろそかにしてはいけない。沖縄の言葉は純粋な日本語を多分に含んでいるので、それはつまり県民の誇りであり大切にすべきである。

県学務課:沖縄県民は標準語のコミュニケーションに不自由していて、現に県外での活動に支障がでている。方言を大切にするのは勿論だが、いまはそんなことを言っている場合ではない。それ故に全県をあげて標準語励行運動を推し進めている。

になりましょうか。ちなみに、昭和15年1月8日付琉球新報3面によると、志喜屋孝信氏は「最後に志喜屋(孝信)氏より標準語問題に關し沖繩は文化的レベルが他縣に比しおとつてゐるから柳氏の趣旨にも副ひつヽ努力する積りである」と述べていますが、「文化的レベルが他県に比し劣っているから」の真意は、標準語による意思表示が他府県人に比べて劣っている実情を指します。

この件に関してブログ主は県学務部の主張を全面支持せざるを得ません。その理由は「美」や「学問」は個人の生命と財産がある程度のレベルに達して初めて追及できる分野なんですが、残念ながら当時の沖縄は県全体としてはそのレベルにないんです。 たしかに廃藩置県以前に比べると、県民の生命と財産を確保できる環境は格段に改善されましたが、だがしかし「標準語の壁」によって沖縄県民が県外で不当な扱い(差別など)を受けてしまい、本来のポテンシャルを発揮できない現状に対し、県庁は黙っているわけにはいきません。

「縣外にあつては標準語は命より二番目に大切なものだ」

というのが県外在住の沖縄県人、そして県学務課、そして多数の(県内在住)沖縄県人たちの “本音” であり、その気持ちを “意識高い人” たちは理解してくれないとの憤りが「方言論争」の原動力になったのは間違いありません。

そして論争がヒートアップした理由のひとつに、県内マスコミが煽った点も見逃せません。当時は沖縄3紙の時代であり、「琉球新報」が柳氏の主張に理解を示す立場、そして「沖縄日報」は県学務課の標準語励行運動を支持する立場を鮮明にします。とくに沖縄日報の

柳氏に対する露骨なまでの攻撃的な論調

が印象的であり、沖縄における新聞社の対立が本土論壇にも持ち込まれた感が否めません。

※「沖縄朝日新聞」については当時の史料が残ってませんが、高嶺朝光著『新聞五十年』によると、どっちつかずの態度を取った感あります。

「方言論争」は現代にも通じる部分があります。それは座談会での討論内容がマスコミ上に掲載されるや、読者が多大な関心をよせ、それをいいことにマスコミが読者を煽り、事が大きくなる流れです。そうなると当事者の柳氏も、県学務課も戸惑いながらもただ「お互いの立場」を述べるしか術がなくなり、そして有耶無耶のうちに論争が終わり、双方に後味の悪さだけを残してしまったのです。

なお、「方言論争」の解釈はアメリカ世から現代にかけて “変節” します。事件の本質は県の標準語励行運動に対する単なる見解の相違だったのに対し、「国家主義の具」とか「一見さりげない事件にみえる。が、実は中央政府ならびに県当局の沖縄政策の実体を、その深みから暴露する事件であった。(『近代沖縄の歩み』)」など、大日本帝国による「同化政策」がやたらに強調されるようになったのです。

ただし、戦後の “通説” が正しいならば昭和20年(1945)の敗戦の結果、我が沖縄は日本の施政権が停止され、アメリカ軍の支配下に置かれますが、そのタイミングで “同化政策” も終わるはずです。だがしかし事実は逆であり、アメリカ世時代の「教育」によって標準語が急速に普及し、その一方で方言は廃れてしまったのです。この件に絡んで、次回からは「方言札」に対する2つの証言を紹介します。