既にご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、先月18日に放送されたバラエティー番組で沖縄出身の俳優さん(二階堂ふみ)が「方言禁止記者会見」に挑戦する企画が行なわれました。
放送そのものには興味がなかったブログ主ですが、放映後の反響が大いに気になったので、試しに方言札に関する史料、特に昭和15年(1940)の方言論争に関する一次史料を(できる限り)かき集めたところ、意外な事実が判明したので、当ブログにて纏めてみました。
※一次史料は「昭和の沖縄」(琉球新報社会部編)と「近代沖縄の歩み」(琉球新報社編・太平出版社刊)を参照に、現存する昭和15年の琉球新報と沖縄日報、「回想 吉田嗣延(よしだしえん)」、そして「沖縄大百科事典」から該当部分をチェックしました。
まずは方言札に関しての一級史料として、「回想 吉田嗣延」に収められていたラジオ沖縄での座談会「方言論争を究明する(昭和60年4月3日)」があります。吉田氏を初め、外間守善(言語学)、新里恵二(歴史学)、新崎盛暉(社会学)の豪華メンバーが参加してのラジオ対談ですが、まずは方言札に関する外間先生の証言を紹介します。
(中略)沖縄で方言札が初めて出てくるのは明治40年(1907)頃です。標準語を使うことに最も熱心だったのは県立中学校(後の沖縄県立第一中学校☛首里高校)の生徒たちなんです。それは時代に目覚めようとする若い世代の自主的な社会宣言なんです。そこに、罰則制度の方言札が使用される。しかし、逆に、自主的に方言禁止を誓った中学生たちに対して、学校側が学校教育の手段として方言札を押しつける時代が大正年間に出てくる。そうすると、今度は若い世代は権力の横暴に対する反骨精神で、あの有名な山口沢之助校長の名をもじって、
大和口札取る毎に思ふかな 方言の札はやめ沢ノ助
という落首を書いたのは有名でしょう(笑)。
補足すると、中学生の間で標準語が流行り始めた最大の理由は日清・日露の戦役で日本が勝利したことにより、明治12年(1879)以前の “日支両属” の時代には戻れない、すなわちこれからは「日本人として生き抜かなければいけない」との現実を強烈に自覚したからです。それ故に中学校で方言札が初登場したのですが、学校側の運用のエスカレートで逆に生徒から反発を買う羽目になってしまった訳です。
外間先生の証言は続けて
大正五、六年に問題はエキサイトする。そのとき(偉大なる)伊波普猷(先生)は、町に出て行って、正しい発音、正しい音韻の問題を言語教育として冷静に説いていったんです。その時点で伊波普猷は方言問題には全くコミットしていません。
その頃から昭和初年にかけて、言葉に対する関心が個人的なものから社会的な関心へと高まってくる。つまり、徴兵検査、兵隊に行く状況がある。そして、移民が盛んになっていく。軍隊生活の場で、移民先において、住民に日本語(普通語)を駆使することのできないウチナーンチュの言葉の悩みというものが具体的におこってくるわけです。それから、宮古、八重山、沖縄本島の間でもお互いに言葉が通じないという現実がある。(下略)
とあり、標準語でコミュニケーションが取れない沖縄県人の問題に言及します。一例として西銘順治氏の父親の順石さんは徴兵時代に銃剣道の名手として九州で名を馳せましたが、そんな彼のコンプレックスは標準語が苦手なこと、そして読み書きができないことだったのです。これは順石さんに限らず、当時の沖縄県人あるあるなので、昭和の時代になると学校内に「一家揃って標準語」などの標語が貼り付けられ、教育の場で方言札の運用が継続されていったのです。
なお、ブログ主が調べた範囲ですが、国や県当局が「方言札」の運用に対してマニュアルを作成したとか、県庁学務課内に特別なチームを編成したとか、何より予算を配分した記録が見当たらないのです。それ故に「方言札」は権力側からの押しつけ等ではなく、民間から必要に応じて生まれたものと見て間違いありません(続く)
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