りうきう独立芸人に絡んだ記事を作成するにあたり、小室直樹著 – 日本の「一九八四年」(PHP研究所)を参照しましたが、昨今のマスコミ報道を省みるに、40年も前に小室博士が指摘したマスコミの問題点が現代もなお引き継がれていると痛感しました。
今回紹介するのは、同著第五章「明日の「角栄」はあなただ!」で引用されている福田恒存氏が「諸君!」に掲載した論文の一部です。「“罪なき者まず石を投げよ“ これが通じないのが二重思考にこりかたまった人間の特徴である。」との同著における小室博士の指摘が分かりやすく説明されてますので、読者の皆さん、是非ご参照ください。
政治は最高の道徳ではない
ある政治家が昂然として「政治は最高の道徳だ」と言つたさうだ。それを聞いて私は腹が立つやら、嘲嗤ふやら、その後よくよく考へ、この人は、政治家の資格もなければ、道徳といふ言葉の意味も知らぬのだ、そして大部分の政治家は大よそ似たり寄つたりだと思ひ、しばし暗然した。今まで幾ら言つても判つて貰へぬが、政治と道徳とは全然別個のものなのだ。最高の政治家、必ずしも最高の人格者とは言へぬ、どころか、屢々それは相反する。政治家に限らぬ、芸術家、文学者として最高の人間が、道徳上、最高の人間だなどといふことは決してありえない。芸術、文学は固より、政治も一個の才能なのであつて、「最高の道徳」などとは無縁なものである。
もしこの世で最高の道徳とまでは言はぬにしても、それを目ざして鋭意努力してゐるものがあるとすれば、それは正に新聞を措いて外には例がない。それゆゑ、新聞は天皇制が打倒されようと、憲法が改められ旧憲法が復活しようと、日本がロシアに占領され、共産圏入りしようと、アメリカの完全な属国にならうと、その他の如何なる天変地異が起らうとも、そのつど日本のある限り永続し、常に最高の道徳を示して止まぬであろう、今度の田中角栄氏の有罪の判決が下つた時のやうに。理由は簡単である。新聞の道徳は、即ち新聞倫理は、二成倫理であるからだ。二成とは言ふまでもなく男女両性をそなへてゐることである。戦争中は全新聞が打つて一丸となり、国民を戦争に駆り立てたが、戦争が終ると、その中心人物は馘首され、或は第一線を退き、その代りにそれまで無痕だった新部隊が戦列について平和、反基地、反戦、非核、反核を唱へる。田中氏の時も同じだつた、初めて首相になつた時は、その頭の良さ、人間らしさを称へられ、今太閤、平民宰相と、神輿のやうに賑々しく担ぎ廻られたものだ。それが忽ち一変、田中番の記者諸君は戦列から引き離され、田中氏と縁のなかつた者が新しく戦列につき機関銃、戦車、バズーカ砲で怨敵を攻め立てる。その相反する二つの田中評価は男女両性器を以て行ひ、いづれの時も恍惚となり、満足してゐる、一から他へ転じた理由の開陳もなければ、謝罪もない。
もし田中氏の「収賄」が上天の許さぬものならば、その「賄賂」のうちから田中番の記者に渡された金品、饗応をどう解したらよいのか。何のことはない、田中番の記者諸君は五億円のピンハネをしてゐたといふことになる、しかも、新聞はつとにロッキード事件を知つてゐたのであり、文藝春秋が嗅ぎつかなければ、何事もなく済んだであらう、「世紀の犯罪」の正体とはかくのごときものである。そればかりではない、その二成の新聞のうち二、三社は何億だか何千万だか知らぬが、それだけの借金を抱へこんでをりながら、国有地を馬鹿みないな廉値で払下げて貰つてゐる。自民党政府は新聞が怖いから、そんな愚劣なことをするのであらう、誰も民間の一企業としか思つていない「天下の公器」といふ新聞の自画自賛を、まさかまともに受け取つてゐるのではあるまい。これは恐喝されたからとまでは言はなくとも、自民党政府としては新聞に対する一種の「贈賄」行為ではないのか。まことに新聞は不死鳥である。(中略)
イエス、オリーヴ山に行き給ふ。夜明けごろ、また宮に入りしに、民みな御許に来りたれば、座して教へ給ふ。ここに学者、パリサイ人ら、姦淫の時、捕へられたる女を連れ来り、真中に立ててイエスに言ふ、「師よ、この女は姦淫のをり、そのまゝ捕らへられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべきことを我等に命じたるが、汝は如何に言ふか。」かく言へるはイエスを試みて訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ、かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して「なんぢ等のうち、罪なき者まづ石を投げ打て」と言ひ、また身を屈めて地に物書き給ふ。
右は新約聖書(『ヨハネ伝』・引用者注)、第八章1–8までの一節である。聖書は続けて「彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人出て行き、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり、」とあるが、今日の新聞記者の多くはイエスと女とを眺め、恬然として笑ひながら、これが記事になるか、ならぬかと、頭の中で計算してゐるに違いない。
田中氏の五億円が仮に収賄であるにしても、新聞の無駄遣ひ、民間企業の政府、或は他企業に対する贈賄、それらを合算すれば、恐らく五十億や百億ではきくまい。もし政府に向つて行革を迫るなら、新聞はみづからの、あるいは企業の「行革」も断行しなければならなくなる、新聞のみならず、すべての民間企業がその気にならねば、「行革」も空騒ぎに終るであらう。政府ではないから、吾々の税金を使ってはをらぬと言い逃れは出来ぬ。(「諸君!」昭和五十八年十二月号二九頁)