【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その3

今回は昭和31年12月の土地接収に関する記事を掲載します。前述したとおり、昭和30年(1955)年の2度の接収予告では比嘉村長を始め久志村の地主は反対の立場でした。ただし3度目にあたる昭和31年12月20日の新規接収予告においては、「契約を前提」として話がすすみ、そして同月28日にスピード契約という異例の展開となります。

【参考】 昭和31年12月20日および21日の琉球新報朝刊から抜粋。

この契約の異例さについては今回詳しい説明を省くことにして、契約に至った経緯について昭和31年12月28日の琉球新報に詳細な記事がありましたので該当部分を書き写しました。注目は①昭和31年8月あたりから地主たちが契約について傾いたこと、②地主たちが直接米軍側と折衝するようになったことの2点です。当ブログに既出の比嘉村長の談話と全体として矛盾はしていないのですが、この時点でも“誘致”という言葉が出てきません。

昭和31年12月28日(金)- 琉球新報朝刊(2)

久志村辺野古地主たちの意向

強制接収されたくない – きょう軍と契約の運び

久志村の軍用地接収に関する立法院各派土地対策委(委員長新里銀三氏)は二十七日現地調査を行い比嘉敬浩村長や関係地主の意見を聴取した。地主の意向は「土地所有権を取上げられない限り同地の接収を認め米軍に協力すれば経済的の恩恵を受けることが出来る」という考えに固まっており、早くもきょう午前八時にバージャー首席民政官と地主代表比嘉敬浩氏との間で賃貸料について話し合い、続いて午前九時にはモーア副長官と土地賃貸借契約を結びほかに委任状を提出する運びになっている。これは地主が布令百九号に基く強制土地接収におびえており、強制接収後の地主の悲惨な生活を憂慮し今回の意思表示となったものといわれているが、最近はむしろ地主から積極的に軍へ協力を申し出ているもののようである。又土地賃貸借契約並びに委任状は軍から示されたものであるが、その内容は一方的なもので、賃貸料は米国政府の評価人により決定されることになり、その他の付帯条件も一切米国政府の案通りとなっている。その他単純封土権、評価、登記、今後の補償なども相当な疑問点があるが、わけても賃貸料がいまだに示されないままに久志村はこの契約にのぞもうとしている。これに対し立法院対策委は「多くの疑問点があるので、一応きょうの契約を努めて延期するよう助言した。」

次は比嘉村長の経過説明と地主の話。

比嘉村長 最初は辺野古部落一帯に空陸の実弾射撃演習をやりたいと昨年一月二十八日に文書で通告をうけた。久志村では森林からの収益で生活の大半を賄っている状態であるため(1)森林を接収されたら今後の生活に困る(2)森林の復元には二十年から三十年の年月を要しその間の生活に困窮を来す(3)暴風雨になると土砂が崩れて周辺の耕作が不可能となるなどで演習を中止するよう政府を通じて二月十一日付で(米)民政府に陳情した。それで昨年三月四日には軍の土地課から演習中止の通告がありほっとした。しかし昨年七月八日には(モーア)副長官から同地の使用について話があり、将来接収する旨通知された。次に七月二十二日には民政府係官(スミス氏)から図面を示されそこで部落民の不安はつのって来た。村当局としては再三にわたり村の窮状を訴え極力同地の接収を中止するよう陳情した。地主も当時は同地の接収に反対した。今年(1956年)の八月には又(米)民政府から係官が来て測量を申し込んで来たので私は極力それを拒否してきたが、最近強制測量の挙に出たのでやむなく測量を許可した。その間に地主は昨年とは違い軍に協力する態度に変わり、村当局と地主とは意思が通じなくなり、地主は個々に軍と折衝をするようになった。このごろでは地主から再三にわたって強制的に私に対し軍に協力するよう強いられ遂に私も地主の意向に従うことになった。私個人の考えでは軍事基地を認めることによって今後思想的にどう変わっていくか、犯罪がふえはしないか、教育問題をどうするかなどを心配しているが、経済面がよくなればどうにかやっていけると思う。

地主Aの話 布令百九号の強制収用をうけて悲惨な目にあうよりはあっさり軍に貸してその金で何とか今後の生活を考えていきたい。

地主Bの話 接収地区からは余り収益はない。又今さらわれわれが反対したってどうにもならない。つまりわれわれは荷が重すぎてとかやく言ってもどうにもならないことだ。

地主Cの話 単純封土権というのがわからないが、それについて軍当局があくまでも地益権と説明しているので一応これを信頼する外はない。

○…なおこの地の事情はかなり複雑であり、一部の地主はここには一部のボス的存在がいてこれが全地主を支配し私欲を肥やしており、他の地主の発言を封じていると語っていた。また立法院議員の「地主は満足して喜んで貸すという態勢にあるか」との問に対し比嘉村長は「地主は軍の示した契約内容委任状に対し賛成している」と述べていたが一部の地主は大半は泣寝入りの状態にあるとのべており今後の成行きが注目される

次は昭和31年12月30日の沖縄タイムスからの抜粋です。同月28日および29日の契約調印に関する記事です。地主代表談話を読むと、賃貸料の件で折り合いがついたので契約したと記載されています。ここでも“誘致”という言葉が出てきません。

「契約期間」は五ヵ年 – 賃貸料は近く公式発表

久志村辺野古の新規接収予定地(約七十七万坪)は来年早々マリン部隊の設営に使用さえることに確定、廿八日DE本部で軍と地主が直接契約に調印された。

廿九日は午後三時過ぎ同村辺野古区事務所でDEからヘンリー大佐、(米)民政府から土地課長アップル少佐(民政官代理)、第三海兵隊代表タフト中佐、現地側は島袋助役以下関係地主約百名が出席して賃貸契約の調印の報告会が催された。

軍側から地主の協力を感謝する意味のあいさつがのべられた。地主の折衝経過報告などから総合すると調印に至った趣旨や接収計画などは

一、四原則は既に神格化されたような状態にあるが、軍用地問題は冷静に理性で判断すべき段階にきている。中南部のように軍用地の多い地域ではこれ以上の土地接収は不安を伴うかもしれないが、これとは違う久志村では軍の駐屯により住民が利益を受ける面が多いことは明らかである。

一、DEでは地主との契約が二十八日成立したので同日直ちに海兵隊用施設(主に兵舎)の工事建設に関するインビテーション(工事発注書)を準備、サインした。

一、この施設の完成によって五–六千人の海兵隊員が駐屯することになるが軍は部落、久志村民を優先的に雇用する。軍は又余剰電力や水道をできるだけ村民に利用させる。民政府は付近への電話架設の実現を急ぐ。

一、農耕地や不用地はできるだけ耕作を許すように考慮する。接収予定地の中南部に近い四万坪は計画から除外する。

というもので、最も注目される賃貸料は近く公式に発表される予定であるが、摂取地約七十七万坪、地主約百名に対し地上物件の賠償も含めて約三百万円が来年六月末までの分として三十日午後同区事務所で支払われることになっているといわれる。又賃貸契約の期限は五ヵ年となっている。

地主代表宮城安範氏談 軍用地問題は既に冷静に判断し、神格化された様な四原則も自由に批判すべき時期にきている。四原則が現在のようにかげをひそめているのは地主の立場を十分知りつくさず双方の理解の上に立つ解決策を見出す努力が足りなかったからと思うし、一部指導者の意見だけにとらわれては土地問題の解決点は見出せない。中南部に比べ軍用地の少い久志村では軍の駐屯は住民に利益するところが多いと思う。

辺野古の土地接収問題が起こった去る八月頃は賃貸料が余りに安過ぎ地主も反対したが、これは基地提供の目的を阻止したわけではない。現在のような賃貸料だったら当時で契約しただろう。米軍は辺野古を絶対に使用したいとの意向だし強制接収よりは協力的立場で解決を見出したいとの地主の意見が一致し契約に署名した。

アップル少佐談 バージャー民政官を代理してあいさつできることを喜ぶ。昨日の契約調印は辺野古にとって重大な意義がある。これによって皆さんの部落は前進するだろうし、我々は父や母が得た以上に子孫の平和、幸福それに繁栄を希望したいものである、これは相互の協力なしでは得られないと思う。

ヘンリー大佐(DE)談 部落民の協力で我々の計画している工事は早急に着工できると思う。土地賃貸契約の調印によって既にインビテーションも署名された。これから数年間も続くであろう軍工事にもできるだけこれらの地主を多く採用したいと思っている。

タフト中佐(海兵隊)談 設営が完成すれば数千のマリン隊員が駐屯するが、これから二ヶ月以内に琉米親善委員会を設け友好と協力によってお互いの問題解決をはかりたい。

契約と同時に農作物の補償費と使用料の支払いが行われたが、比嘉村長の話によると地上物件に対する補償費として百八十一万六千余円、五六年十一月十六日から五七年六月三十日までの土地使用料として六十三万三千円、合計二百四十五万円を受領している。年間使用料は大体金武村と同じ線であるといわれる。

【参照】 昭和31年12月28日琉球新報(左)と同月30日沖縄タイムス(右)

現時点で公開された史料を元に、昭和31年12月28日までの契約の経緯を推測すると、

・昭和30年の2回の新規接収予告の時点では(久志村長および地主たちは)総じて反対の意向。

・昭和31年8月の(強制的)測量あたりから地主たちが契約に前向きになり、米軍側と直接折衝を始める。

・比嘉久志村長は“久志村の土地を守る会”の会長を務めている手前、新規接収には最後まで反対も地主たちに押し切られてしまう。

・昭和31年12月20日、米民政府から久志村に対して土地接収予告が通知される。

・昭和31年12月28日、比嘉敬浩村長ほか地主代表が契約に応じる

になりましょうか。ちなみに琉球政府の当間主席や立法院議員談話、および土地連の発言もチェックしたのですが、やはり”誘致“という言葉は出てきません。総じて「地主が応じるならどうすることもできない」という反応です。(続く)