【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その2

前回記事において、昭和31年(1956年)12月22日の沖縄タイムスの記事から比嘉久志村長の談話を掲載しましたが、今回は同日の琉球新報の記事を掲載します。

・昭和31年(1956年)12月22日 – 琉球新報

村民の意志に従う – これまでの経緯、比嘉村長の説明

久志村辺野古一帯の軍用地新規接収問題は昨年一月に端を発しており、その時から今日までの経過について比嘉村長は次のように説明している。

(1)一九五五年一月二十八日、米軍が百二十二号線(許田写原線)と百八号線(名護世冨慶久志線)にはさまれた久志岳を中心とする山林地帯で空陸の実弾射撃を行うとの通告が村にとどけられた。

(2)直ちに緊急村会を招集して、その阻止を陳情した。村民約五千のうち八〇%以上が山林収入に依存しているので、演習期間中は山入りできないと生活に困る。また米国が賠償するにしても山林を焼かれたら二十年ないし三十年の空白期間が生ずるので、その間の生活ができなくなる。しかも急傾斜の山林に爆弾を投下すれば土砂が田畑に流入し堤防が決壊するなど中南部接収地同様の被害を受けることになる、等の理由をあげて陳情したところ軍も了解して演習中止を決定した。

(3)一九五五年七月八日、比嘉村長はモーア副長官に呼ばれライカムで村内の軍用地予定地について接収予告を受けた。

(4)同年七月二十二日、比嘉村長は(米)民政府土地係官スミス氏に他の関係市町村長に呼ばれ軍用地接収予定地を図示された。

(5)その後、DEから同地域に測量のため立入りたいとの要請があったが、村長は測量のための立入りは接収の前提だとして、これを拒否した。

(6)更に数日後、測量の再申込みがあったので、村長は農耕地を除いた山林、原野の測量を認めた。

(7)ところが再び全予定地域の測量申込みがあり村長は再び拒否したら強制測量の気配が見えたので、やむを得ず農耕地の一部を除外して測量を認め測量が実施された。

(8)地主も始めは強制測量に反対していたが、満一、伊江島(真謝)、伊佐浜(宜野湾村)のように強制収用され住民の権利が失われるようになりはせぬか、基地持つことで村民の経済生活がよくなるだろうということで次第に協力に傾いて来た。村長は四原則貫徹を説いたが遂に地主側から「村当局だけ反対して予定地内にある村有地が強制収用を受け、他の地主の権利まで侵害された場合に村当局がその賠償の責任をとるか」との意見が出るに至り、村長も他の地主と同様に村有地を軍用地に賃貸することに同調することになった。

比嘉久志村長の話 私は“久志村土地を守る会”の立場から四原則貫徹を全住民の主張であることを説いたが地主の意志は村長の職権ではまげることができないし、伊江島や伊佐浜のように強制収用にあって住民の権利が失われるおそれもあること、久志は地理的に辺ぴな所であらゆる面で特に経済面で他町村におとるが米軍基地を持つことで経済面の発展を期し得ること、同時に住民の福祉と共に今まで収入皆無だった村有山林十五万坪の賃貸料で村財政をうるおすことなどの利点に加えモーア副長官の話でフィー・シンプルは所有権従って領土権とも関係ないことが分かったので地主の意志どおり賃貸契約に署名する決意をした。現在軍用地問題の新規接収や一括払いなどについても政府対政府の基本線が出ていないのに久志村が賃貸契約をやることは相当の勇気を要したが私は村長として常に村民の利益と幸福を念願しており、村民の意志を尊重し村民の福祉のために取るこの措置に対し各方面から批判を受けるのは覚悟の上である。

タイムスの記事よりも当時の経緯が詳しく掲載されていますので、以後は新報の記事をベースに話を進めますが、今回分ったことに

・昭和30年(1955年)7月8日に比嘉村長がライカムに呼ばれ、軍用地予定地に関する新規接収予告を受けていたこと。(ただしこの件に関する地元メディアの記事は確認できず。念のため『沖縄新報』もチェックしたのですが……)

・比嘉村長が“久志村土地を守る会”の会長を務めていたこと。それゆえ当初は“4原則貫徹”の立場から新規接収には反対の立場であったこと。

・7月23日の記事に新規接収地域の詳細が掲載されていましたが、この時点では山林部中心で、キャンプ・シュワブがある“長崎原・下福地原”の具体的な地域名が出てこないこと。

の3点があります。では7月22日以降の地元メディア(琉球新報中心)で、当時の経緯を検証します。


7月22日の琉球新報朝刊および夕刊です。朝刊がスクープ扱いのような記事配置になっていました。この記事は昭和31年12月22日に掲載された記事の(4)に該当します。書き写し文は下記参照。

・昭和30年(1955年)7月22日 – 琉球新報朝刊(2)

続く軍用地接収

今度は北部地区 海兵隊の使用 – 今日通達か

伊江島と伊佐浜の軍用地接収問題がまだ解決を見ていない折から、新らたに沖縄北部の恩納、金武、宜野座、久志村にわたる軍使用地●使用開始される模様である、民政府では金武、宜野座、久志、恩納など各関係村長に二十二日(金)あさ十時民政府会議室への出頭を求めており、その席上首席民政官によって同地域の軍使用を通告すると伝えられている。

さきに米第二海兵師団が日本から転駐し、また国防省による沖縄の土地使用計画発表によって、現在米軍が使用している軍用地のほかに新らたに約一万二千エーカー(約一千三百万坪余)を海兵隊使用地として接収する意向が示されているので、今後も使用開始地域は同海兵隊用地としての接収であろうとみられている。

なお海兵隊では当地米軍筋とともに、海兵隊使用地の新規接収については、できるだけ最小必要な面積にどとめ、民家の立退きをさけるよう検討が進められて来ていると伝えられるが、新規接収地域に民家を含んでいるかどうか不明である。

・昭和30年(1955年)7月22日 – 琉球新報夕刊

続く軍用地接収

色を失った六町村 – 帰村、直ちに緊急議会 – 接収に怯える関係住民

【朝刊既報】二十二日(米)民政府から出頭を求められた、東、国頭、久志、金武、宜野座、名護の北部地区六ヵ町村と中部の具志川、勝連両村長は、あさ十時から、民政府会議室において真喜屋法務局長立会で民政府軍用地係スミス氏から地図によって米軍の新規使用計画を示され、村長としての承諾を求められた。

北部地区では全町村が住民生活の基礎をなす山林の約半分或は三分の一といった大幅接収がなされることになり、宜野座村の一部は住民地域も含まれているので、各町村長とも問題の重大さに驚き、直ちに帰村、臨時議会を招集して長村民にはかることになった。

午前中は北部地区各村についてスミス氏から説明があり、そのほとんどが国県有地の山林地帯で近く使用予定だが、住民生活に影響をおよぼす処があれば、変更の陳情を文書で提出せよと語った。

これに対し町村長は、係官の説明では使用目的も明らかでなく、接収されたら住民生活に大きな影響を与えるものとして反対の意を表明したが、結論を得るに至らなかった。近く文書で各関係町村に通知があるものとみられる。

「久志村名護町」さきに軍演習を予定されていた久志岳から名護町境界にかけこの山岳地域一帯。


昭和31年7月23日の記事です。このとき新規接収地の詳細と地図が掲載されていました。この時点では現在のキャンプ・シュワブにあたる“長崎原・下福地原”の地名が出ていません。(”久志村-大浦崎以南の山林の大部分と一部原野”が該当するのかは不明)

・昭和30年(1955年)7月23日 – 琉球新報朝刊

軍用地接収

一万二千エーカーを予告 – 北部東海岸山林の大半

【既報】二十二日民政府軍用地係スミス氏によって関係町村長に東、国頭、久志、宜野座、金武、名護の北部六ヵ町村の山林原野地帯と具志川の天願北海岸一帯 = 海兵隊の使用地と見られる合計一万二千エーカー(約一千三百万坪)の新規接収予告が行われた。

二十二朝十時から(米)民政府会議室で真喜屋法務局長立会で民政府スミス氏から地図によって各町村ごとに米軍の新規使用計画が示され、予定されていた区域内で耕地、住民居住地域、神社など使用から除外してもらいたい所は検討の上陳情せよとの説明が行われた。

町村長は係官の説明では使用目的も明らかでなく、即答できる性質ものでもないとして、地図の写真を貰って帰村、直ちに臨時議会を招集町村民にはかることになった。

なお、国頭村、東村の山林地帯はほとんど全部が国県有地であり、民政府の管理財産であることを係官が指摘しており、関係町村長に対しても“指示区域の局部的変更”について陳情するよう語っている点などから関係者は軍が既定方針として押し進めるのではないかと危惧している。

新接収地 軍から予告された新接収予定地域について関係町村長は固く口止めされた模様で口をつぐんでいるが関係者の話を総合すると写真のとおり北部地区東海岸の山林地帯と大半に及び宜野座村では一部住民居住地域も含んでいる模様である。

【久志村・名護町】 久志村大浦崎以南、辺野古、久志を経て、名護町許田から数久田に至る久志岳、辺野古岳、名護岳の山地。久志村-大浦崎以南の山林の大部分と一部原野。名護町-許田から数久田にかけての山岳。


昭和30年7月26日の記事です。村長談話として接収反対の意向が掲載されています。

・昭和30年(1955年)7月26日 – 琉球新報朝刊

軍用地接収

新規接収予告の波紋 – 怯える関係町村 – 難問解決に鳩首協議

北部六ヵ町村と中部二ヵ村の一部にわたる海兵隊用地一万二千エーカーの新規接収予告に、関係町村では大きな反響を呼び、それぞれ対策に心を砕いている。

既報のとおり金武村では地主大会を開いて新規接収反対の意向を見せており、国頭村では村議会で陳情を決議したが、久志村でも今月中に臨時議会を招集の予定であり宜野座村では、各区代表からなる対策委員会を設ける準備を進めている。

【久志村】 久志、豊原、辺野古の三区と二見の一部との山林地帯約五百町歩余を接収予告されているが、うち約二百町歩(北明治山の五分の一、南明治山全部)が国県有林で残る三百五十町歩が村有、部落有または私有となっている(そのうち約八〇%が村有)。七月一杯に緊急村会議を招集して対策を協議することになっている。

比嘉久志村長 = 接収予告地域は住民生活の七八%が山に依存しており、これをやられたら生活の大きな脅威だ。予定地域内の中には振興計画第二次(一九五七年度)に施行予定の豊原ダム建設地域を含んでおり、村の産業振興にも重大影響を及ぼす。


昭和30年8月10日の沖縄タイムスから、(5)にあった測量拒否の件の記事がありました。

・昭和30年(1955年)8月10日 – 沖縄タイムス朝刊

接収地の変更 – 久志村長が軍に陳情

最近軍は、久志村辺野古部落付近の農耕地を含めて約五百エーカーの地域の測量を申しいれたが、比嘉村長は九日、民政府にシャープ少佐を訪れ、同地域は部落民の生活源であり、代替地を予想されないので接収変更してもらいたいと陳情した。

ここまでの流れ(昭和30年7月に米民政府から新規接収予告を受けた直後)をみると、当初は久志村として接収反対の意向であったことがわかります。ただしその後地主を中心に契約承認の流れになり、村長としても(4原則貫徹)新規接収反対を立場を貫くことができなくなります。(続く)