今回は、“キャンプ・シュワブ誘致説”の根拠の一つでしょうか、平成4年(1992年)9月18日の沖縄タイムスに連載された『弁務官周辺の秘話 – ジョージ・サンキ語学将校の証言』の全文を抜粋します。読者のみなさん是非ご参照ください。
★5 住民誘致の基地 – 久志村が村有地提供
比嘉村長が申し出 – 経済をよくしたい
一九五六年、私がバージャー民政官に仕えていたころの話である。
ある晩、私は浪人中の西銘順治氏と一緒に桜坂の”なんだ浜”でくつろいでいた。私たちの近くで大きな体の久志村長・比嘉敬浩氏が座っていた。
村長は「サンキ大尉、あなたと話がしたいのですが…」と私のところに近寄ってきた。
「われわれの村はとても貧しいのです。経済状態を良くするのに何かいい方法はありませんか」と続けた。
私は驚き、経済学者でない私にどうしてたずねるかを確かめた。「あなたは軍属で沖縄人だからです。アメリカ人として、アメリカ人のこと、軍のことを良く理解しています。さらに沖縄人として沖縄の経済状態をよく知っています。われわれの村には農業に向かない土地がたくさんあります」と理由を説明した。それは久志村が村有地を軍へ提供しても良い、と示唆しているようだった。
私は半分、冗談に「なぜ久志村に米軍基地を移転する要望をしないのですか」と返答した。村長は私の意見を聞きたかったようだ。村長は私の意見で米側の説得をするのが良い方法と思った。村長は「村の希望がかなえられる方向で軍当局と折衝してほしい」と繰り返し頼んだ。
村長はその時、酔っぱらっているようでもあった。「本気で考えているなら翌日午前七時に私の部屋に来てください」と別れた。
そのころ、沖縄は米政府案の軍用地一括払い反対運動の中で、反米感情が高まっている時だった。
翌朝の午前七時、村長は私の部屋に現れた。村長は「サンキさんのサジェスチョンを受けたい」と表明した。私は久志村に農業に適さない百㌈以上の村有地があることを確認した後、レムニツアー大将あてに正式に基地誘致文書を作成してくるようにアドバイスした。その文書は、村長の署名、村議全員の支持署名、地図を付けて私のところに届けるように、と付け加えた。そして、このことは秘密裏にすることを注意した。村長は一週間以内に文書を届けることを約束した。
ちょうど一週間目に村長は私の事務所に現れた。私は注意深く翻訳し、民政官に回した。
その新しい基地建設に興味を示したのは海兵隊だった。海兵隊の第三海兵師団の訓練の施設はキャンプ・ハンセンだけでは不十分だった。海兵隊は、すぐ工作隊(DE)に推薦状をつくるように要請した。ハワイ州の海兵隊司令部は六ヵ月後にレムニツアー大将に基地建設同意を出した。その結果、村長は沖縄で最も幸せな男になった。
村が誘致した基地はキャンプ・シュワーブで、今では世界有数の海兵隊訓練基地に挙げられている。ここは沖縄の軍用地接収の歴史の中で、米軍サイドからではなく、住民の誘致によって基地となった唯一の場所である。
ジョージ・サンキ語学将校の証言は、平成4年(1992年)9月14日からスタートして、7話で終了しています。(キャンプ・シュワブに関する記事は5話)サンキ将校の証言7話全文を読んだところ、記憶違いと思われる箇所が複数あり、現時点では信憑性に欠けるきらいもあります。そのため第五話「住民誘致の基地 – 久志村が村有地提供」の記事も細かくチェックしてみたところ、興味深いことがわかりました。
・1956年、私がバージャー民政官に仕えていたころ:バージャー氏が米民政府に(首席)民政官として赴任したのが、昭和30年(1955年)8月で、昭和31年時点でサンキ氏がバージャー民政官に仕えても矛盾はありません。
・私は浪人中の西銘順治氏と一緒に:当時社会大衆党員であった西銘氏の浪人時期は特定できます。それは昭和31年3月11日から6月30日の間です。西銘さんは前年に社会大衆党の体質に嫌気がさして、新党結成を模索するのですが、結局断念。一時政治の世界から身を引いて実業家になろうと思い立ちます。
だがしかし、昭和31年3月11日の立法院選挙に23区(具志頭、玉城、知念、佐敷)からの出馬要請を受けて、立候補を決意。選挙に臨むも80標差で落選します。
落選後は起業(漁業・水産業)のための事業計画を作成中、稲嶺一郎さんから「琉球造船の再建に手を貸して欲しい」と専務就任の要請があり、6月30日に専務就任の運びになります。『戦後政治を生きて – 西銘順治日記』からの該当箇所を抜粋しましたが、西銘さんが浪人していたのは歴史的事実で間違いありません。琉球造船の専務に就任する前には新事業計画のために米民政府にお伺いした記述もあったので、サンキ氏と桜坂で飲んでても別におかしく有りません。(下記参照)
*昭和31年(1956年)5月3日 登と二人でUSCARに行きダガートと鋼船建造計画について話し合った。非常に好意的だった。(戦後政治を生きて – 西銘順治日記 146㌻からの抜粋)
・その新しい基地建設に興味を示したのは海兵隊だった。海兵隊の第三海兵師団の訓練の施設はキャンプ・ハンセンだけでは不十分だった。海兵隊は、すぐ工作隊(DE)に推薦状をつくるように要請した。ハワイ州の海兵隊司令部は六ヵ月後にレムニツアー大将に基地建設同意を出した(中略):この部分も矛盾ありません。実際に昭和31年の12月29日の久志村辺野古区での賃貸契約調印に、第三海兵隊代表タフト中佐が出席しています。それと3月から6月の間に基地誘致文書を作成→サンキ氏が翻訳→6ヶ月後にハワイ州の海兵隊司令部がレムニッツアー大将に建設同意書を提出→同年12月20日久志村への新規土地接収予告の流れもスムーズに見受けられます。
ここまでサンキ氏の証言に大きな矛盾は感じられず、久志村の比嘉村長がサンキ氏と水面下交渉したのは昭和31年3月11日から6月8日までと推定できます。6月9日以降はプライス勧告に関連する騒動が起こりましたから、水面下交渉は事実上不可能です。
なおサンキ氏の証言にはところどころ記憶違いがありますが、ひとつひとつ訂正すれば矛盾のない内容となり、第五話に関しては正確な記述とブログ主は判断しています。ちなみにサンキ氏にウソの証言をする理由も動機もありません。証言を読む限りウソ八百をならべて原稿料を稼ごうとする卑劣な品性の持ち主には思えないのです。
キャンプ・シュワブは“誘致したのか”あるいは“新規接収に応じた”かはさておいて、実際に基地を建設したことで久志村が潤ったことは事実です。だからこの案件は
結果的に旧久志村も米軍も Win-Win の関係になったから、別にどっちでもいいのでは
というのがブログ主の結論です。これ以上この案件には触れることなく今回の記事を終えます。(終わり)