【先行公開】第二次沖縄抗争の考察

先日、ブログ主はこれまで蒐集した史料を整理したところ、暴力団第二次抗争(山原派vs泡瀬派)に関する新聞史料を多数所持していることに気が付きました。改めてチェックしたところ、暴力団第一次抗争(那覇派vsコザ派)と明らかな “違い” が目についたので、試しに当ブログにてまとめてみました。

その前に、戦後沖縄犯罪史(昭和60年1月4日付沖縄タイムス夕刊から連載開始)の8~9回などを参照に第一次、二次抗争をまとめてみると、

・暴力団抗争(第一次):昭和36年(1961)年9月9日、又吉世喜が西原飛行場にて新城喜史ら複数のコザ派に襲撃されたのをきっかけに、翌37年(1962)那覇派がコザ派数人を拉致監禁したことで対立が激化、又吉世喜狙撃事件(11月13日)で対立がピークに達し、同年12月の琉球警察の一斉手入れで両派幹部が多数逮捕されたことで強制終了。

・暴力団抗争(第二次):昭和39年(1964)7月から、旧コザ派から分裂した山原派と泡瀬派の対立が表面化し、同年11月26日に喜舎場朝信のシボレーに銃弾が撃ち込まれた事件が決定打となり、対立が激化。喜舎場暗殺に失敗(昭和41年4月23日)した泡瀬派が結果的に那覇派、普天間派まで敵に回してしまい、劣勢を強いられた泡瀬派は同年9月に喜屋武盛一(泡瀬派大幹部)が解散を宣言、そして翌42年(1967)1月に解散して決着。

になりましょうか。抗争の過程で生じた個別の事件についての言及は割愛しますが、実は第二次抗争においては山原、泡瀬、那覇、普天間の4派が実力ある中堅幹部を中心に「戦士」を駆り集めて組織的に行動するパターンが見受けられます。

ちなみに昭和41年(1966)5月16日付琉球新報朝刊7面の特集記事「続・組織暴力〈3〉」によると、琉球警察の全琉署長会議で初めて「戦士」の呼称が登場します。ざっと説明すると、身辺警護や縄張り料の徴収、そして抗争における「兵隊」として山原派ら4派幹部らが街のチンピラを組織化したわけですが、実はこの動きは第一次抗争では第二次ほど明確ではなかったのです。

第一次抗争の際は、コザ派が「極南会」を結成しましたが、まったくといっていいほどうまくいかなかった前例があります。そして両派の対立事件も気の合った仲間同士が寄り集まって相手側に殴り込むとのパターンがほどんどです。

それに対して第二次抗争では各派幹部お抱えの「戦士」が対立して事件を起こすパターンに代わっています。4派の幹部たちが第一次抗争時に比すると明確に “組織” を意識するようになっているのですが、それはつまり、そうしないと琉球社会では生き残れないことを自覚していたのです。

ただし、現代のヤクザ社会のように、〇〇組が結成されてもいい流れが出来上がっているのですが、実際はそうならなかったのです。その理由は各派幹部と「戦士」たちの結束が極めて弱く、そのため戦士たちのスタンドプレーを幹部たちが制御できなかったからです。その典型例が昭和41年4月10日、石川市(当時)で起こった、泡瀬派青年と那覇派青年たちのケンカで那覇派に死者が出でしまった事件で、加害者である泡瀬派の青年たちは泡瀬派有力幹部(徳原某)配下の「戦士」だったがゆえに処分問題がこじれてしまい、結果的には泡瀬派は解散に追い込まれてしまいます。

※泡瀬派幹部の徳原某に「戦士」をコントロールする力が不足し、かつトップが戦士の不始末に対処できなかった点に注目。

第二次抗争は現代のセンスで解釈すると、半グレ組織の抗争事件と認識したほうがわかりやすいかもしれません。ただし昭和37年当時までは “シンカ” の寄せ集めで好き勝手やっていたアシバーたちが、昭和40年ごろには明確に組織化を志向し、翌41年の「東声会」の進出と那覇派・山原派vs普天間派の抗争(昭和41~42年)を経て、沖縄連合旭琉会(昭和45年12月8日)に至る流れは、沖縄ヤクザ史に特筆特大で明記すべきと確信しつつ、今回の記事を終えます。