首里城と言えば “琉球王国の象徴” という枕詞が目につく今日この頃ですが、それはあくまで近現代の発想であり、時代によって為政者や民間における首里城に対する捉え方は大きく異なります。
ちなみに当運営ブログにおける首里城は “不人気” のひとことですが、今回は(毎度おなじみの)黒歴史に絡めながら首里城の記事をアップします。
今年に入ってブログ主は不定期ではありますが、鳥越憲三郎著『おもろさうし全釈 (1968年)』を写本しています。その際に気が付いたのが16世紀の為政者および知識人の “首里城に対する認識が今日と全く異なる” ことであり、ためしにその事実を伺えるオモロを一首紹介します。(巻五 – 首里天きやあんしおそいかなし首里おもろの御さうし – 天啓三年癸亥三月七日)
一 首里森、嫌ひて、嫌ひたる、清らや。上下の世、揃へるぐすく。
又 真玉森、嫌ひて、嫌ひたる、清らや(以下略)
このオモロは意訳すると、「首里城を立派におつくりになられた。天界と地上を統治する城(ぐすく)だ」になりましょうか。補足すると首里森=首里城を表し “嫌ひ” は “造る” と同義です。上下は天界と地上を意味し、つまり首里城は天界を統治する城が地上に具現したものであり、それゆえに首里城は神々のご加護によって末永く栄えると述べています。(そして首里城の管理者である王の権力は神によって保証されていることも意味します)
つまり当時の王権はこのような神託が必要不可欠だったわけです。いわば権威(神)と権力(王)が分業・協同の関係にある神権政治ならではの発想ですが、残念ながら歴史の事実は慶長14年(1609)年、首里城を含むりうきうの大地は薩摩軍によってフルボッコにされます。
そして敗戦から13年を経過した1621年ごろに建設されたのが “首里城南殿” です。この事実はすこぶる重大で、神域であるはずの首里城に “敗北の象徴” である施設が建てられたわけです。当時の為政者たちの衝撃、とくに聞得大君をはじめとする高級神女たちのショックは測りしれないほど大きかったはずです。その理由は神域(首里城)が人間の手で汚されたからです。
事実、慶長の役以降の琉球王国は従来の神権政治から人治による政治に大きく方向転換します。その象徴が1641年に即位した尚賢王であり、彼は “神號” が付与されない初の国王となります。(りうきうの歴史上の最大レベルの黑案件は後日アップ予定)
誤解を恐れずにハッキリ言うと、平成の御代に復元された首里城は、尚眞王時代の神権政治を象徴するものではなく、第二尚氏八代目の尚豊王以降の人治政治(日支両属)の象徴なのです。そしてそのような代物を琉球民族のシンボルとして祭り上げる輩には、正直なところ開いた口がふさがりません。
現在、沖縄に駐留する米軍は大東亜戦争の敗北の産物です。いわば “敗戦の象徴” ともいえますが、とくにアメリカ世を生きた世代は在沖米軍の負の遺産(犯罪など)の記憶が残っていますので、「そんなものは見たくない。沖縄から出ていけ!」と叫びたくなる気持ちは理解できます。ただし沖縄社会の面白いところは、ブログ主が見た限り
基地反対を唱える輩ほど、平成に復元された首里城を “民族の象徴” として崇める傾向が強い
ことです。そしてこの事実は沖縄の歴史学会において「おもろそうし」が腫物扱いされていることと無関係ではないと確信したブログ主であります。(終わり)