今回は、7月10日付の沖縄タイムス文化面(18)に掲載された上里隆史(うえざと・たかし)先生の論説を掲載します。戦前(大日本帝国の時代)の研究に未開拓の部分があるのでは、という内容ですが、たしかに現行の琉球・沖縄史は近現代史(ただし沖縄戦を除く)の記述がいまいちな気がしてなりません。ブログ主はその理由として、①経済に対する記述が貧弱であること、②ヤマト(日本)によっていかに差別されたかを強調しすぎなどが原因かと考えています。
明治12年(1879年)の廃藩置県以降、どのようなルートをたどって琉球は沖縄県になったのか、日本国民として生きる道を選択したかの考察は現代社会を生きる上で極めて重要です。「沖縄とヤマトの関係150年の歴史を問う時、ヤマト世で沖縄の人々がどのような社会を築き、壊されていったか、また残ったものはあるか、継続的な視点で明治以降、現代までの歴史を俯瞰する作業が求められている」と上里先生はご指摘されていますが、では本当に大日本帝国時代の歴史の見直しを行ったら”都合の悪い人たち”が多数存在するのではと余計な心配をしてしまうブログ主であります。
【追記】よく考えると上里先生の論説を当ブログで取り上げるのは初めてです。
明治150年で 沖縄からの視座〈上〉上里隆史
近代沖縄 歴史のはざま 「戦前」の研究 なお未開拓
今年、2018年は明治新政府設立(1868年)から150年に当たる節目の年である。政府を音頭取りとして、日本各地でさまざまな記念事業の取り組みが行われている。大河ドラマ「西郷どん」の放送もその祝賀ムードを後押しする。この日本の近代国家誕生は、沖縄にとっても歴史の大きな転換点となる出来事であった。
周知のように、現在の沖縄県と鹿児島県の一部である奄美諸島には「琉球王国」という前近代国家が存在した。史料上に登場する名称は「琉球国」だが、これは「近江国」や「周防国」のような、日本の律令国家で定められた領制国とはまったく異なり、「日本国」や「朝鮮国」、「暹羅国(タイ)」のように、東アジアで対外的に認知されていた国家であった。歴史研究では、日本の領制国と異なる性格を的確に示すために、分析概念の歴史用語として「王国」の呼称をあえて使用している。
中世日本では国の領域を「東は外が浜(青森)、西は鬼界島(奄美)としており、琉球は日本の領域外にあり、けがれの観念に基づき人ならざる者が住む「鬼界」と認識していた。14世紀から始まる中国との冊封・朝貢関係も現在イメージする「属国」ではなく、内政干渉は一切なかった。17世紀まではどの国も、一度たりとも実効支配を琉球に及ぼしたことはない。
15世紀初頭に沖縄島に成立したこの「王国」は、首里を都として国王と「王府」という独自の政治機構があり、16世紀前半には北は奄美大島から南は与那国島までの領域を排他独占的に統治した。各地方には「間切」とその下の「シマ」という行政区間があり、地方統治は王府から任命された「間切掟」という行政官が行っていた。
王国全域の土地は中央の首里で一括管理、農地は細かく分類され、国王の辞令書によって家臣に分配が認められていた。首里の王による強力な中央集権が実現していたのである。この支配は海のネットワークによって広大な海域に点在する島々にも浸透していた。また国家の運営によるアジア諸地域との海外貿易も行い、15世紀には東アジア有数の交易国家として成長を遂げていた。
この王国は1609年、薩摩島津軍の軍勢によって征服され、日本の徳川幕府の体制下に編入された。王国体制はそのまま残され、中国との冊封・朝貢関係は維持したまま、日本の従属する「異国」としてアイヌや朝鮮、オランダなどとともに江戸幕府のなかば観念的な小中華秩序の一翼を担い、1879年(明治12年)まで続いた。
琉球は明治維新により成立した新政府に併合され(琉球処分)、「沖縄県」として日本社会の一員となった。1972年の復帰前後には「琉球処分」をめぐる問題が大きな研究テーマとなったが、それはアメリカ統治下からの世替わりという時代状況で、「沖縄はなぜ日本なのか」という問題意識が研究に大きく影響していた(高良倉吉『琉球史研究をめぐる四十年』)。これに対し「では処分されたところの琉球とは何か」との問いが、今日の琉球史研究の隆盛の起点となった。そして沖縄が独自の国家と歴史を形成したことを解明した前近代沖縄の歴史研究が、明治の「琉球処分」の特質をより鮮明に描き出す結果となったのである。
今、明治維新150年に当って沖縄とヤマトの関係を改めて見直すに際し、琉球処分と琉球史研究の成果の上に、もう一度、明治維新以降から現代までの歴史像を描く必要を感じる。そこで重要となるのが近代沖縄史、戦前についての研究である。前近代の琉球史研究と、沖縄戦・戦後史の研究のはざまに置かれ、近年では『沖縄県史各論編 近代』が刊行されたものの、総じて戦前の研究はなお未開拓の分野があるように思える。個々の特定のテーマだけでなく、沖縄戦までの「日本になった沖縄」を総体的・体系的に描く作業をより進めていく必要があるといえよう。
こうした問題意識に基づき拙著『新聞投稿に見る百年前の沖縄』では、大正時代の新聞投書欄から、当時の世相や庶民たちの暮らし、思想心の内面までも明らかにし、「戦前の沖縄の人々が”近代”という時代をいかに受け取っていたのか」をリアルタイムの情報を基に描き出すことができた。
また最近話題となった朝日新聞社から発見された1935年の沖縄の写真は、単なる「ノスタルジー」のツールではなく、カラー化などを通じ「歴史資料」として分析の対象となっているのは特筆すべきことである。那覇市歴史博物館では多数の写真や建築資料などの分析から、10・10空襲で破壊された昭和初期の那覇市街ジオラマを復元したが、その過程で明らかとなったのは戦前沖縄の特異な都市建築であった。沖縄の建築史研究にも新たな1ページを加えたのである。
沖縄戦それ自体の分析も重要だが、「戦争が壊したところのものは何か」という視点は、前述の琉球処分に対する琉球史研究の問題意識と通じる。沖縄とヤマトの関係150年の歴史を問う時、ヤマト世で沖縄の人々がどのような社会を築き、壊されていったか、また残ったものはあるか、継続的な視点で明治以降、現代までの歴史を俯瞰する作業が求められていると私は考える。(法政大学沖縄文化研究所国内研究員)
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