先日(4月29日)に公開した記事、“沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた”がブログ主の予想の斜め上を行く反響でしたので、今回も調子に乗って沖縄ヤクザ関連の記事を掲載します。前回の記事において(個人的に)一番衝撃だったエピソードに、昭和38年2月に「喜舎場朝信を救う会」が開催された件がありますが、実際に当時の新聞を調べたところ本当にあったので、今回は書き写し分を掲載します。(注、月間沖縄では開催日が2月13日とあるが、琉球新報では2月14日午後3時となっています。開催場所がコザ市照屋の区民館(公民館)であることは一致。)
・昭和38年(1963年)2月15日(火)琉球新報朝刊からの抜粋です。2月14日にコザ市照屋(当時)の区民館で「救う会」が催された件の記事が掲載されていました。
コザで喜舎場を救う会 – 玉城副議長ら嘆願書に署名
【コザ】 コザ市議会副議長の玉城克也氏、議員の具志堅用善氏をはじめコザ市照屋本町通り会十字路市場組合、新橋通り会、照屋中道通り会、照屋オリオン通り会、照屋十字路通り会の有志40人が発起人となって14日午後3時からコザ市照屋の区民館で「喜舎場朝信を救う会」を催した。
これは昨年12月22日、コザ署が行った暴力団手入れで家宅捜索のあと銃刀法不当所持の布令違反で逮捕したコザ市安慶田118、喜舎場朝信(40)は民政府裁判所に送られ、2万5千㌦の保釈金を積んで保釈中だが「これは何かの間違いであり、このため悩んでいる喜舎場を激励しよう」と玉城副議長や照屋区の各通り会有志が話し合い、この会を持ったもの。
この会には約2百人の区民が集まり、民政府裁判所に提出する嘆願書に署名した。ところが市民の中には「非常識もはなはだしい、あきれてものがいえない」というのもいる。
玉城克也氏の話 社会の人たちは喜舎場さんを誤解している。彼は遊んでいた若い者達を更生こそさせたが、市民に迷惑をかけたことは一度もない。コザ地区防犯協会から表彰されたこともあり、模範的な一市民である。私たちは彼の人となりをよく知っており、毎日もんもんしているのをみてしのびないと思い励まそうとこの会をもった。(中略)
【参考】 昭和38年(1963年)3月 『月間沖縄』 – 殺し屋に殺された暴力団より、該当部分の書き写し分を掲載します。
(中略)次に同会(喜舎場朝信を救う会)で登場した人たちの「喜舎場観」を記してみよう。
上原某 = 自宅の池から古いナタやトビが出てきたというわけで逮捕されたようだが、これは喜舎場君が本土に行った留守中に、留守番をしていた男が投げ込んだものだ。その頃は物騒で喜舎場君の宅から百ドル盗まれるというようなことなどもあり、喜舎場君の家内はこのことで恐怖症にとりつかれたりしていたものだが、とにかく喜舎場君は暴力団などという組織があるかも分からないし、もちろん、その組織に関係しているものでもない。
座間味某 = 喜舎場君は本部伊豆味の生れで、幼少の頃父がペルーに去り、母は亡くなって、彼は祖父の手で育てられた。青年時代は南洋に出て、終戦後帰って来た。彼はコザ市遊技組合副会長をしたり通り会の幹部や防犯協会員をしたりして社会的な功績は大きい。また、私的にも事業失敗で人手に売り渡した田畠もちゃんと買い戻し、父をペルーから呼んだりして大の親孝行である。
具志堅某 = むしろ、彼がいることで町のダニや暴徒たちの悪行がなくなったというべきだ。彼は単刀直入にものをいう男で口は悪いが、弱い者いじめを見てはおれないという気質の持ち主だ。
・昭和38年(1963年)2月19日(火)琉球新報朝刊の声欄(読者の投稿)です。さすがに15日の記事が大反響をよび、翌20日には「喜舎場を救う会に市民の怒り」と題した声欄の特集記事も掲載されています。
声 – コザ市議会は問題視せよ
こともあろうにコザに暴力団の親分である「喜舎場朝信を救う会」ができた、と15日付きの琉球新報朝刊が報じています。毎日の新聞は切った、はったの暗い記事で埋まり、暴力事件の続発も不思議ではなくなった。つまりニュースとしての価値が薄らいだかの印象を紙面から受ける者ですが、さすがに暴力団後援会の記事にはドギモを抜かれました。
コザに住む者にとって、小さな交通事故や不良少年たちの盗みは話しのタネにもなりません。といいますと読者におかしく聞こえるかも知れませんが、私のいわんとするのは基地の中心地だけにいろいろな犯罪が多く、しかも市民は余程の事件でもない限りびくともしないということを強調したかったのです。
しかし、事件なれしたコザ市民も、選良である市会議員が暴力団を救う会の発起人であるということを新聞で知ったときにはオドロキというよりも深刻な表情に満ちた“いきどおり”でありました。それほど強いショックを与えたのは玉城克己という人がコザの副議長であり、改選前には議長もつとめたことがある人だからです。糸満における某立法院議員の“差し入れ事件”といい、またこんどの嘆願書といい、中央も地方自治体も議員の質がすこぶる低下したようです。
こうなればもう私には怒る気力などありません。あきれて物がいえないのです。しかもあの記事の中に玉城副議長はもっともらしく喜舎場は暴力団とは関係がない、誤解を受けているのだなどと、ごまかしみたいなことをいっているが笑わせるな!コザ市民はアキメクラ〔原文ママ〕ではないぞといいたい。玉城副議長の「喜舎場救う会」の結成について、巷間では議員選挙の際、喜舎場一派が活躍したのでその恩返しだと評する向きもあるが、貴殿はどう答える。とにかくこの暴力団救う会についてはコザ市議会あたりが取り上げ副議長に自重を促すか、コザ市議会の責任として処罰するかいずれかの措置をとらないと、沖縄には馬鹿が多すぎると物笑いになりはしないか(コザ十字路、商業・具志堅某)
・昭和38年(1963年)2月25日(月)琉球新報朝刊より抜粋分です。14日開催の「救う会」の詳細を玉城克也氏が詳細に説明しています。この記事に関してはノーコメント。
人の誠意を曲解するな – 喜舎場君は善良な市民だ –
玉城克也氏が声の非難に反論
「喜舎場君を救う会」を曲解している3氏(この件で琉球新報に投稿した3人のこと)へ、会の真相を伝えてお答えする。3氏は喜舎場君を救う会をただ、15日琉球新報朝刊を読んで「暴力団の親分を救う会をしたとか、暴力団を救う会をしたとか、その裏には利害関係がありやしないか、選挙の●場の恩返しではないか、このような奴は暴力団と結ぶ議員である。しかも玉城副議長は前議長であり、議会を汚すものであり議会から追放すべきである。喜舎場は暴力団でないというが、コザ市民はアキ●(アキメクラ)ではない」とあたかも裁判官みたいな立場で筆の暴力を振るい、人々の誠意をふみにじっているのに対して、怒りを感ずるよりも、むしろ憐みの情でいっぱいである。
喜舎場君は起訴もされていないと私はきいているが、あなた方は、われわれが喜舎場君を救う会をしたり、喜舎場君が暴力団の親分でなければ困ることがあるのか、われわれが一番恐れているのは警察でも新聞でも、ことの真相を追求する前に、主観で事件を判断した場合、自分の主観を通すための事件のデッチあげである。
私が喜舎場君を救う会の発起人の一人となったことは、議会とは全く関係ないことで、私個人の問題で、正しいと思ってやったことであり、あなた方が筆の暴力によって、私を窮地に追い込もうとしてもムダなことで、痛くもなければ、かゆくもないが、喜舎場君を救う会、即ちわれわれの誠意の集会に対して、悪い印象を与えることになれば、喜舎場君のためにも集会した方々に対してもすまないので、敢えて真相をのべることにしたので、関係者各位のご了解をいただきたい。
会の発起人は47名でコザ十字路の本町通り会、市場組合、新橋通り会、オリオン裏通り会、十字路通り会の方々が主であるが、これらの人々はコザ十字路の照屋区に喜舎場君とともに住居を有する方々であり、みな個人的の自由な立ち場で参加している。会は荻堂某(前本町通り会長)の司会ですすめられ、伊礼某(前市場組合長)の開会のことばについで司会の荻道某によって経過報告がなされた。
この経過報告の中でもこの会は準備会として2,3回もって、慎重に検討したが「喜舎場君が暴力団と目されるのは、何かの間違いであり、彼は善良な一市民であるという発起人の意見一致をみたので、本会をもつことになったという報告があった。その後協議事項に移り、活発な意見発表がなされた。意見発表は上原某(コザ市●家族会副会長)が先輩の立ち場から喜舎場君こそ暴力をにくみ、暴力を否定している人であると力強い意見がのべられ、続いて座間味某(元中通り会長)、郷土の先輩の立ち場から喜舎場君の生い立ちや、現在の事業成功にいたるまでの苦心談や、郷土につくられた功績について語られ、第三番目に立ったのが武村某(前コザ市議、元町通り会長、コザ地区遊技場組合長)である。
武村氏は会社の、のっぴきならない用件で出席できないところを重役のお許しをえて1時間のヒマをもらって馳せ参じたことをのべ「喜舎場君は武村某が本町通り会長の時の評議員であり、遊技場組合長時代の副会長であって、その間に通り会や遊技場組合より感謝状をおくられたことがある。町づくりに功績がある人ばかりでなく、コザ地区防犯協会より表彰されたこともあるりっぱな人である。今回の暴力団事件で疑われているのは誠に残念である。喜舎場君はあけすけに物をいうので、口は悪くて強情なところもあるが反面人情味あふれる人である。彼の誤解をといて彼を救うべきである」と力強い訴えがあったのである。
続いて吉田某(本通り会長)が友人と同業者の立ち場から意見がのべられ、その次に具志堅某(市議)が過去において同業者であった当事のことや、同郷の友人の立ち場から喜舎場君の人となりについて語り、喜舎場君が、安慶名、屋富祖、普天間において手広く事業をし、今日までもってくるに並大抵の苦労ではなかった。失敗した時分には本部町伊豆味にある8千坪余の田畑も処分したのであり、りっぱな事業人であると同時に、社会的にも奉仕している人である。と力説されるや、会場は拍手によって、それに賛同を与えたのである。
その次に私が本日の会の名において嘆願書を出したらどうかという意見を出したのである。その後司会の方で嘆願書の件が正式に提案され、嘆願書を出すことに決定し、発起人の方で用意してあった案を島袋某(新橋通り会長)によって朗読されるや、満場一致拍手によって採択になったのである。
その後具志堅某より「この会を喜舎場君が晴天白日の身になるまで存続したらどうか」という動議が出て、全員賛成をみたのである。会の幕は玉元某(バー組合長)の閉会のことばで閉じたのである。
以上が会の真相であり、私一人でこの会をやってないことをじゅうぶん知っていただきたい。開会から閉会までの記録もテープレコーダーに取ってある。20日新報朝刊のN氏を含めて、あなた方4人はコザ市にいないことが住民登録名簿の調査や区長、通り会長に問い合わせた結果わかったのであるが、あなた方が本当に実在するコザ市民であり、心から私のための心配し、コザ市のためを思うならば、腹をうちわって話し合ってみたい。あなた方の自由な立ち場において時間と場所さえ連絡してもらえば、お伺いするにやぶさかではない。偽名をつかって他人のことをひぼうし、罪におとし入れようとする行為は許せるものではないし、かかる人こそ裏ではどんな悪いことをしているかもわからない。
偽名と知りつつ発表する新聞の常識も疑いたい。新聞はあくまでも大衆の公器だから「声欄」の取り扱いは慎重にしてほしい、取材もただ警察情報のみに頼らず足でとってもらいたい。本会の場合も記者は来てない。開会まえちょっとのぞいてすぐ帰ったそうである。ただ残念でたまらないのは、自由な立ち場で集会した某料亭の主人に対して、その筋の人がいや味をいったことである。コザ市民始め沖縄に住むすべての人々にお願いしたいことは、われわれの誠意を曲解しないで欲しいことである。(コザ市照屋58)
ちなみに調べた後の感想は、「これも時代だな……」としかコメントの仕様がありません。
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