暴力団抗争事件の底流にあるのは何か – 。ひとつひとつの抗争事件が、次の事件へのいきがかりとなり、さらに新たな事件の引き金となっていく。報復が報復を呼び、憎しみだけがどす黒い血となって流される。
互いの憎悪が抗争事件を次から次へと生み出しているが、その本当のきっかけは県警もつかんでいないようだ。結局、抗争事件の現象から推測するほかはない。
組織内で主流争い / 劣勢上原一家の一発に端
いま、起きている旭琉会と上原組・琉真会の対立抗争事件の導火線となったのは、3年前の旭琉会の集団リンチ事件だった。49年9月20日未明にこの集団リンチ事件は起きた。旭琉会主流派幹部と感情的に対立していた同会反主流派の上原一家の組員とのケンカが原因だった。この両派の感情的対立も根が深く、必然的に爆発するようになりゆきは進んでいった。
「沖縄 “連合” 旭琉会」と名前がつけられている通り、対立抗争を続けていた那覇派と山原派と呼ばれる暴力団がひとつになった組織で、それだけにしっくりいかない面があった。県警も逮捕してくる暴力団を山原派と那覇派に色分けしていたほどだ。一連の抗争事件の根は那覇派、山原派の対立ではなく、山原派内部の指導権争いが原因だった。さしずめ、内ゲバといったところだ。
上原一家の親分・上原勇吉は山原派内部の最古参に席を占める1人だった。ところが山原派の理事長になれなかったばかりか、主流派から「反主流派」と警戒され、いろいろな形で主流派から締め出されていく。県警捜査二課には当時、宜野湾市内でと博を開帳していた上原一家のと場に主流派が乗り込み、上原一家の顔がつぶされるということも再三あったという情報もあるほどだ。
こうした感情的な対立のあげく、抗争事件は引き起こされていった。いったんコトを構えるとケンカが早いのが暴力団のツネ。抗争事件は一気にエスカレートしていった。山原派主流派は約400人もの組員を抱え、旭琉会でも那覇派をしのぐ勢力を誇っているだけに、50人前後の上原一家はたちまち追い込まれていった。上原一家の偽装解散も旭琉会主流派攻擊をかわす手段にならなかった。
いよいよ追い込まれた上原一家は同年10月24日、宜野湾市真栄原の高級クラブで旭琉会主流派の新城喜史理事長を射殺する。犯人の上原一家の2人はすぐ自首してきたが、両派ともこの理事長射殺事件で後には引けなくなってしまった。上原一家の上原勇吉親分は地下にもぐり、指令を出す。圧倒的な力にもの言わせる旭琉会主流派は力で押しまくる。あとは、もうムチャクチャな殺し合いを繰り返す図式。
しかし、さしもの血の抗争事件も両派の行動隊員の若い組員が警察に次々と逮捕されたことで一時期、徐々に沈静化していった。とくに組員の少ない上原一家は、勇吉親分が地下に潜ったあとリーダーとなっていた勇吉の実弟・秀吉ら主だった幹部が逮捕されるに及び、自然に消えてなくなった。それから約1年、秀吉ら上原一家の幹部が次々と刑務所から出てきて散り散りになっていた組員を集め始めた。51年12月、体制を立て直した秀吉ら幹部は山口組直系の大平組と杯を交わし、那覇市安謝に上原組として旗揚げをすることになる。(昭和52年5月21日付琉球新報11面)
コメント
Comments are closed.