黒い芽 – 暴力追放総決起運動 / (6) 桃色遊戯

那覇市寄宮の沖縄大学裏通りから国場方面へ抜ける農道のそばに俗称 “七つ墓” と呼ばれる墓地があり、ススキやカヤ、草の低い雑木などにおおわれている。ここで昨年夏O少年ら “黒い芽” の不良グループが、桃色遊戯にふけって検挙された。古い墓地で、どの墓もここ数年、放ったらかされたままで、持ち主もお参りにこないようす。

墓の入口を固めてあったシックイもおち、ずしかめも大きな割れ目をつくったまま、修理がされていない。その墓の中で、目立って大きな構えの亀の甲墓があった。同じように墓の口がポッカリ開いている。かたわらにボロボロの頭かい骨や、灰色になった胸骨、大きな眼がねのような形をした骨盤などが、ミカン箱3つぐらいうず高くかき出されている -。

墓の中で5日間 / 婦女暴行へお決まりのコース

少年係りが、通報を受けて、急行したとき、墓の中は “ツイスト大会” の最中だった。ベテラン刑事7人。合図とともに中に踏み込むと、とたんにランプが吹き消され墓の中は、たちまち真ッ暗やみ。白い光線の差し込んでいる四角い入り口めがけて少年たちは逃げだそうとする。ぶつかってたおれるもの、頭をはち合わせにしてのびてしまうもの。体と体のぶつかりあう音と騒々しい足音。その中で手錠の音がした。

手さぐりの捕りものが続いて10分後には、まぶしそうな顔で少年たちは、墓の中からつぎつぎに、引きづり出された。A少年(17)をリーダーに中学2年と3年生の女の子2人を含む総勢7人の桃色グループが那覇署に検挙されたときのもようである。

“黒い芽” たちは「不満であり退屈でしょうがない」のだ。家出、施設逃走、ケンカ – 。どれもこれも周囲のものにいや気がさして突きやぶりたい衝動にかられている。それで “わかっちゃくれない” 奴らをみかぎって “さっしてくれよナ” という調子でみん集まることになる。そして、タバコをふかし、酒を飲み、かっぱらい、あき巣をおそい、婦女暴行、集団リンチとおきまりのコースをたどて悪化して行く。

少年係りの話によると、”黒い芽” たちはローティーンに盗犯関係が多いのに対し、ハイティーンは桃色遊戯が多い。ハイティーンの非行化についてこの点を分析しなければならないという。

彼らは、しびれるようなムードを求めて深夜喫茶に入り、たたきつけるドラム、がなりたてるトランペットの響きに陶酔する夜が更けて店がしまる。フラフラになるまで踊り狂った少年たちは、まだ興奮状態を持ち続けて町の中に出てくる。そしてそのころには、スケ(彼女)とヒモ(彼氏)という関係でお互いに結ばれているわけ。 – 先に書いたO少年ら桃色グループもこのようなケースで生まれたものである。

ここでA少年についてもう一度ふりかえってみよう。Aが最初に補導されたのは、小学校6年のとき。義父の虐待が彼を非行に追いやったのが原因。ある夏の夜、桜坂でガム売りの女の子をいたずらして補導されたのがキッカケとなった。そのときは義父と母親に注意をあたえてひきとらせ、Aはその後2年ぐらい警察のやっかいにならなかった。係り刑事は、初回補導で更生したものと喜んだが、実はそうではなかった。中学2年のときたまたま盗みで補導してみると、きょうかつ、婦女暴行と悪質な罪をいくつも重ねるようなしたたか者になっていた。桃色遊戯で深夜喫茶通いもひんぱん。グループのリーダーにまでなっていったのである。

国場の墓地で検挙されたとき彼のグループはアラビアンナイトに出て来る盗賊と同じようなもので、昼間はゆすりたかり、あき巣ねらい、かっぱらいと食物、着物から電気製品にいたるまで市内をかたっぱしから荒らしまわり、墓の中に運び込んだ。

墓の中は、ずしがめを外にだし枯草を敷きつめた八畳敷のホールに早がわり。お菓子、くだもの、かんずめ、と食べものはいくらでもある ”さアこれでOK、スケもパンチの利く奴を2人みつけたし、いうことねェや” “当分、モグッてやるか” と一味は、墓の中で、朝から晩までヤチハマス(隠語で桃色遊戯のこと)にふけり、盗んで来たポータブル電〇でツイストを踊る。まる5日間である。補導されたときには、色は青くなり、体は汚れで真っ黒。

“黒い芽” らにとっての遊びはトランプのかけごとやかっぱらい競争などいろいろあるが桃色遊戯は、その中でも代表的な悪い遊びである。しかも最近ではこの面から非行におちいるワナがいくらでもある。少年係りの刑事は「”黒い芽” たちは “退屈でしょうがない” のに “遊ぶ方法” を知らない」という。(昭和38年2月25日付琉球新報7面)