昭和53年(1978年)10月以降の琉球新報をチェックしたところ、鄧小平副首相訪日(22日)とそれに関する記事が複数掲載されていました。一番興味深いのが11月2日夕刊一面に掲載された廖承志(りょう・しょうし)中日友好協会会長のインタビュー記事です。この記事を読むと中国側のほうが現実感覚に優れ、日本の一部知識人の現実感覚のなさが浮き彫りになっていて、「当時も今も状況はあまり変わっていないな」と思わざるを得ませんでした。
予備知識として、廖承志は当時の中国共産党では屈指の知日派、LT貿易の立役者です。全文を掲載しますのでご参照ください。参考までに稲垣武著 – 悪魔祓いの戦後史の一節も掲載します。
【北京一日共同】 廖承志(りょう・しょうし)中日友好協会会長(全人代常務副委員長)は一日、北京の人民大会堂で国際問題研究者友好訪中団(藤井治天)と会見し、日中平和友好条約の戦略的位置付け、日本の軍事増強問題について中国側の見解を総括的に表明した。このなかで同会長は自衛隊の条軍事力増強〔原文ママ〕を明確に支持するとともに、総評など革新陣営内部にある自衛隊問題や日米安保条約についての中国の政策への非難に対して厳しい反論を行った。
鄧小平副首相とともに訪日して帰国したばかりの廖会長は、日中条約発効について「中国の対外政策は一番悪質な超大国(ソ連を指す)への戦略体制から出発している。だから中国は日本と仲良くなり、相互に尊重し、日本の優れた技術と経済を学ぶ決意である」と述べた。
同会長はまた、同条約が実質的な中日軍事同盟だというソ連の非難に対して「われわれは軍事同盟を結ばない。中日両国とも過去軍事同盟にはこりごりしている」と否定し「中日両国が経済などいろいろな分野で協力を進めれば、それが力になる」と述べた。
日本の軍事力については「日本が民族独立を守るために、兵力をいくら増強しても、軍国主義の復活とは考えない。日本が相当な兵力を持つことは世界の平和とアジアの平和と安定の重要な要因になる。シンガポールのリー。クアン・ユー首相も同じことを言っているのは興味深い」と述べ、「日本が憲法第九条で対外侵略の戦力を持たないことは結構だが、自分を守る戦力を持たなければ大変なことだ。日本の一部の友人が主張するような非武装・中立はあり得ない」と強調した。(1978.11.02 琉球新報夕刊一面)
・しかし現実には、まさに日本で安保改定論争が熾烈だった六〇年から中ソ対立が激化し、ソ連は七月、派遣専門家の引揚げを通告、プラント供給を停止した。六九年三月には中ソ国境で武力衝突さえ起こり、中ソ同盟条約は有名無実となった。そして七二年二月、事態の推移を見すましたニクソン米大統領が訪中、米中関係は急速に改善され、それに追随して田中首相が九月に訪中、日中関係も正常化へ向かった。
(日米安保条約)改定阻止派が「十年の間には国際条約はどう変わるかわからない」と言った通りになったわけだ。保守知識人のなかには中ソ対立を予言した者も少なからずいたが、進歩的文化人には皆無に近かったようである。マルクス主義の教義に囚われて現実の国際政治のダイナミズムが理解できなかったのだろう。その故か、七八年一〇月に訪日した鄧小平副首相が「日米安保・日本自衛隊増強は当然」と言い放ったときも、寂として声はなかった。
進歩的文化人が、安保に変わる安全保障政策として提示していたのが非武装中立主義である。(稲垣武著 – 「悪魔祓い」の戦後史 128㌻)
【捕捉】 昭和53年(1978)年10月22日に来日した鄧小平副首相(当時)の、「日米安保・自衛隊増強は当然」に関する記事も見つけましたが、機会があれば後日掲載します。当時の鄧小平発言は現在においても有効で、国際情勢が激変した今も中国共産党はこの建前を堅持しています。(公式声明等で当時の鄧小平発言を否定していないということ)この点は東アジア情勢を考える上で重要なので、今回当ブログにて当時の記事を掲載しました。
・1978.11.02 琉球新報夕刊一面
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