資料 右翼とウヨク、左翼とサヨクを分かつもの

「右翼とウヨク、左翼とサヨクを分かつもの」関連の資料をまとめました。

・史記列伝 伯夷列伝 第一 君臣の義とは何かを明示した逸話で、幕末の尊王思想に多大な影響を与えます。

・拘幽操 山崎闇斎著 ブログ主の現在のレベルではまだ歯が立たないのですが、湯武革命論の否定とは何かを明示した内容です。

・闇斎の学問の特徴 少年日本史(平泉澄著)内の山崎闇斎(上)から抜粋 平泉澄教授の『少年日本史』の中でも山崎闇斎の項は傑作といっても過言ではありません。本当は全文を掲載したいのですが、今回はその一部を抜粋します。これだけでも崎門の学の本質が看破できます。

・靖献遺言:現代語訳 浅見安正著(他)明治44.6 刊行 言わずと知れた幕末のスーパーベストセラー。近代デジタルライブラリに現代語訳があったので、リンクを貼り付けします。


史記列伝 白夷列伝 第一 (岩波書店 昭和50年初版)

末の世のひとびとはわれ勝ちに利益を争うなかで、ただこの二人のみが正義へ向かってふりかえらず、国を(弟に)ゆずり、飢え死にした。天下のひとは、これをほめたたえる。だから白夷列伝第一を作るー太史公自序

およそ学問をするひとが用いる書籍はじつに範囲がひろい。それでも信頼度をたしかめるにはやはり六経をたよりにする『詩』と『書』には篇のかけたところがあるけど、虞(舜)や夏(禹王)の時代のかがやかしいあとを知ることはできる。(たとえば)堯は位をしりぞこうとおもい、舜にあとをゆずった。舜から禹王へのあいだでは四岳十二牧の大臣たちことごとく禹をすすめた。そこでまずその地位において試みられ、禹は職をつかさどること数十年いさおしのしるしがたかくあらわれた。しかるのちに政事はかれにひきわたされたのであった。天下とはいかに重き器であるか、王者はいかに大いなるすじめであるかを明示したのであって、かくのごとく、天下を伝えることは、容易なことではなかったのである。ところが説をなす者はいう、「堯は天下を許由に譲った。許由は受けず、そのことを恥として逃げ出し身を隠した」と。夏の世になってからも卞随や務光というものが有ったという。どうしてこんな人たちの名が口にされるのであろうか。

太史公曰く、わたしは箕山に登った。山上には許由の塚があるということであった。孔子はいにしえの仁者・聖人・賢人のことを述べたたえた。たとえば呉の太伯とか伯夷などのひとびとにつき詳しく言っている。わたしの伝聞するところでは、許由や務光の節義はじつに高いのに、かれらについての文辞がいささかも概略さえ(経書中に)あらわれていないのは、何ゆえであるか。孔子は言った、「伯夷・叔斉は旧きを悪みを念わず、怨みは是を用って希なり」、また「仁を求めて仁を得たり。また何をか怨まん」と。わたしは伯夷の決意に感動を覚える。だが逸詩をみると、うたがいなきをえない。

伝えによると、伯夷と叔斉は孤竹君の二子である。父は叔斉をあとつぎにしたく思っていた。父がなくなるや、叔斉は伯夷に譲ったが、伯夷は「父のいいつけだ」と言い、かくて逃亡した。叔斉もやはり君となろうとせずに逃げた。弧竹君の人々は二人のまんなかの子を君とした。そのとき伯夷と叔斉は西伯昌(周の文王)が老人をいたわると聞いて、そのもとへ向かっておちついたということである。

西伯がなくなるにおよび、武王は(父の)木主(いはい)を車に安置しー父を文王とよぶことにしてー東へ向かって殷の紂王を征伐に出た。伯夷と叔斉ばその馬の手綱にとりついて、いさめた、「なくなられた父ぎみを葬りもせず、しかも干戈をおこすとは、孝といえましょうか。臣として君を弑せんとすること、仁といえましょうか」。側のものがやいばをむけようとした。太公(呂尚)は「これぞ義人である」と言い、おしかかえてつれてゆかせた。武王は殷の乱れを平定しおえて、天下は周を主人とした。ところが伯夷と叔斉はそれを恥とし、義をまもって周の穀物を食べることをいさぎよしとせず、首陽山に隠れ住み、薇を採って食べていた。

餓えて死がせまったとき歌を作った。その辞にいう、「彼の西山に登り、その薇を采りぬ。暴を以って暴に易え、その非を知らず。神農・虞・夏も、忽焉して没せり、我、安にか適きて帰せん。干嗟徂かん、命の衰えとるかな」。かくて首陽山において飢え死にした。このことから考えるに、怨みがあったのでもあろうか、そうではないのか。

「『天道には親無し。常に善人に与す』という。伯夷と叔斉のごときは、善人といってよいのだか、そうではないのか」と言うひともある。仁を積み行いをいさぎよくしたことかくのごとくであっても餓死した。そればかりか『孔子の門人』七十子のともがらのうちで、仲尼(孔子)は、ただひとり顔淵を学をこのむとして推賞した。しかるに「回冶しばしば空し」といわれたように、酒の糟や糠にも食べあきることさえできず、とうとう夭折した。天が善人に対する報いとは、いったいどんなことであるか。

盗蹠は毎日罪のないものを殺し、人の肉を生で食い、兇悪でわがままであり、数千人の徒党をくみ、天下を横行したが、寿命をまっとうして死んだ。それは何の徳をおこなったのであったか。これらは、とりあわけいちじるしく目につく例である。

近き世となっては、操行はみちにはずれ、忌ははばかるべき事をかえりみないものをもっぱらとして、しかも終生たのしみにふけり、富みさかえ、代々子孫もたえないものがある一方で、地をえらんで踏み、時機を考えてのちに発言し、行いは径をとおらず、正しきことにのみ憤りを発する、それでわざわいに出会った者の数は、とてもかぞえきれない。わたしははなはだ当惑する。もしかすると天道といわれるものがただしいのか、ただしくないのか。

孔子は言った、「道同じからざれば、相為に謀ることをせず」と。ひとおのおのの志にしたがうのである。ゆえに「富貴にして如し求む可くんば、執鞭の士といえども、吾亦これを為さん」といい、「如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」「歳寒うして、然る後に松伯の凋むに後るるを知る」とも言う。世のなかですべて混濁し、はじめて清廉の士があらわとなる、というが、(富貴なる者は)あのように重んじられ、(富貴でないものは)これほども軽んぜられる、それでよいものだろうか。「君子は世を没えても名の称せられざることを疾む」といい、買子は言った、「貪夫は財に徇じ、烈士は名に徇ず。夸る者は権に死し、衆庶は生をむさぼる」と。「明を同じゅうすれば相照し、類を同じゅうすれば相求む。雲は竜に従い、風は虎に従う。聖人作って万物覩わる」という。

伯夷と叔斉は賢者であったけれども、夫子(孔子)のおかげでその名はいっそう彰われた。顔淵は篤学のひとであったけれども、蝿が名馬のしっぽにくっついたごとく、行いがいっそう顕わとなった。岩屋にかくれすむ士が、世に出るか出ないかは時運によって異なる。このたくいのひとで名はうずもれはてて引きあいにも出ないものがある。悲しいことではある。村里の人は、行ないにはげみ名を立てんと欲しても、青雲の高き人にとりすがらないかぎり、後生までつたえられることが、どうしてあり得ようか。


拘幽操(山崎闇斎著)

文王羑里にして作り玉へり

目窅窅たり。其れ凝り、其れ盲ひぬ。耳粛粛たり。

聴くに声を聞かず。朝に日出でず。夜に月と星を見ず。

知ること有りや、知ること無しや。死せりと為んや、生けりと為んや。

嗚呼、臣が罪、誅に當れり。天王は聖明なり。

程子曰く、韓退之、羑里操を作りて云ふ。「臣が罪、誅に當れり。天王が聖明なり。」と。文王の心を道ひ出し来る。此れ文王至徳の処なり。遺言。

問ふ。「君臣父子、同じく是れ天倫なり。君を愛するの心、終に父を愛するに如かざるは何ぞや。」曰く、「離れ畔くも、また只是れ庶民なり。賢人・君子は、便ち此の如くならず」と。韓退之云ふ。「臣が罪、誅に當れり。天王は聖明なり」と。此の語、何が故に程子是を好しと道へる。文王豈に紂の無道を知らざらんや。却つて此の如く説く。是れ衆人を欺き誑かすに非ずや。直ちに是説有り。須く是れ転語有りて、方に文王の心を説き得出だすべし。看来たれば、臣子の、君父の不是底を説く道理なし。此便ち、是れ君臣の義を見得たる処なり。荘子云ふ。「天下の大戒二つ、命なり。義なり。子の父に於ける、適くとして義に非ざる無きなり。天地の間に逃るる所無し」と。旧と嘗て、一つの文字に題跋して、曾てこの語を引きて以為へり。荘子が此の説は乃ち、楊氏が君を無みするの説なり。它の這の意思のごとくなれば、便ち是れ奈何ともすることなく了りて、方に恁地義有り。却って此は是れ、自然に有る底の道理なるを知らず。語類。

礼に曰く。「天は地に先立ち、君は臣に先立つ」と。其の義一なり。坤の六ニ、敬以て内を直くし、大学の至善、臣、敬に止まる。誠に旨有るかな。秦誓に云ふ。「予れ天に順はざれば、厥の罪惟れ鈞し」と。是れ泰伯・文王の深く諱む所。伯夷・叔斉の敢えて諌むる所にして、孔子「未だ善を盡さず」と謂ふ所以なり。吾れ嘗て「拘幽操」を読み、程子の説に因りて、此の好文字、漫りに観るべからざるを知る。既にして朱子、程説を以て過ぎたりと為すを見て、信疑相半ばせり。再び之を考ふるに、朱子更に転語して文王の心を説き得出だせり。夫れ然る後に、天下の君臣たるもの定まる。遂に程朱の説を操の後に附すと云ふ。

山崎嘉跋


闇斎の学問の特徴 少年日本史(平泉澄著)内の山崎闇斎(上)から抜粋

(三)かように日本の歴史をしらべ、国体を考えるところから、儒学の中においても、諸説を批判する力が出てきたのでありましょう。その最も大切な点は、革命を承認するか、しないかの問題です。シナは、不幸にして、たびたび革命が起り、国家は起っては亡び、立っては倒れています。シナの開けたのは、四千年も前のことで、古い文明を誇りとするのでありますけれども、国家としては、いずれも短命でした、すなわち夏は十七世、四百年ばかりで亡び、殷は三十世、六百年余りで亡び、周は三十七世、八百七十七年で倒れ、秦は三世、十五年しか続かず、前漢十三世、二百七年、後漢十三世、百九十六年、それから三国、晋、南北朝を経て、唐が二十帝、二百九十年、五代を経て、宋が十八帝、三百二十年、元は強大でしたが百六十二年、明二百九十四年、清二百九十六年でしょう。力のある者が、武力で国を倒してゆくというのでは、五倫も道徳も、あったものではありますまい。それ故にシナでは、ずいぶんすぐれた学者でも、革命の問題になってくると、勝利を得た方に味方にしてこれを弁護する説を立てやすいのです。その中で絶対に忠義を守り、あくまで革命に反対する考えの出ているのは、韓退之の拘幽操です。それを見つけて、これを大きく取り上げ、極めて短篇の詩であるにかかわらず、これを印刷して一冊の書物としたのが、山崎闇斎でありました。さきに述べた遊佐木斎も、これを求め、これを読んで、その学問が極まったのでした。

その拘幽操と同じ精神で、シナ歴代の革命を論じたものは、闇斎自身が作った湯武革命論で、それは漢の高祖はもと秦の民であり、唐の高祖はさきには隋の臣であったのであるから、それが天下を取ったのは、臣下が君主に反逆したことにほかならぬ、それは宋でも明でも、皆同じことであり、さかのぼって殷でも周でも、建国の英主として賛えられているものの、実は道義には反しているのであり、道義にかなっているのは、後漢の光武帝一人だけであると論じているのであります。これは孟子を批判し、さらに孔子や朱子の論の足らない所を補い、あるいはそれを徹底させての議論であって、ここまで徹底させることができたのは、一つは闇斎の儒学が、ただ博識を誇るというようなものでなく、精しく道理を究めてゆく厳しい態度であったからでもありましょうが、それ以上に重大な理由は、日本の歴史を考え、ことにたびたび伊勢大神宮の神前にひれ伏して、天壌無窮の神勅を仰ぎ、国体の尊厳に打たれたからに違いありません。つまり闇斎が革命否定の論を徹底できあのは、闇斎が偉かったからでありますが、そこまで闇斎を導いたのは、実に日本の歴史そのものであったのです。

 


靖献遺言:現代語訳 浅見安正著(他)明治44.6 刊行

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777109/6

 

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