血ぬられたゼネスト – 本物の暴力の恐ろしさ(3)

(続き)これまでざっと昭和46(1971)年11月10日のゼネスト時における警官殺害事件について、当時の新聞史料などを紹介してきましたが、なぜ沖縄の識者たちがこの案件について沈黙し続けるのかについてブログ主なりに言及します。

ここ数日、新聞紙上にコザ暴動に関する記事が散見するようになりましたが、11.10ゼネストとコザ暴動を比較したところ、

“復帰協” と “新左翼” が絡む案件

には県内識者は口をつぐむ傾向があります。その理由は簡単で、彼らは本質的に “正義の圧力(暴力を含む)” の行使を躊躇しないからです。参考までに11.10ゼネスト時の警官殺害事件に匹敵する残酷案件として、昭和50(1975)年2月15日午前に発生した旭琉会による上原組組員3人の惨殺事件がありますが、記事一部を紹介しますので読者のみなさん、是非ご参照ください。

虚空をつかむ手……

はい出る嘉陽メッタ刺し

現場は楚洲部落の県道13号線から村道を南へ約1,300㍍奥に上りつめた山中。通称楚洲の長尾原というところで見晴らしがいい高台。ここで残忍な殺人事件があったとはとても考えられない美しい山原の自然が広がっている。

ギラギラ照りつける炎天下、発掘作業は24日午前10時から県警捜査二課、名護署など総勢50人の捜査員で始められた、村道から20㍍ほど下った斜面に殺された3人は埋められていた。

一面、シイの木のかん木がおい茂り昼でもうす暗いところで3人は縦1.5㍍、横1㍍、深さ約1.8㍍のダ円形の穴に、折りかさなるように埋められてあった。

ショベルなどで、たん念に土を掘り出しながら発掘作業は慎重に進められた。作業着手から約2時間の午後1時ごろ空を手でつかむように突き出された人間の手が土の中から現れた。赤いジャンパーのような上着と黒っぽいズボンを着けた男が1番目に堀り出された。

嘉陽宗和のあまりにも変わり果てた姿だった。あお向けで、1番上に埋められていたため腐乱が最もひどかった。赤い上着には短刀で突き刺されたあとが無残に残って3人のうち最もむごい遺体だった。事件当夜、3人は自分らが埋められる墓となるダ円形の、この穴に放り込まれた。そして4~5丁の短銃で弾がつきるまでうたれた。倒れた3人は赤い血のしみ込んだ土が無残にもかぶせられた。しかし、自供によると嘉陽はその後も生きており、おおいかぶせられた土をはねのけて穴からよろよろはい出した。約10メートルの斜面をころげ落ちるように逃げようとした。すぐにつかまり「心臓を刺せ」という加害者らの狂気の中、短刀と心臓などメッタ刺しした。そのうえこめかみにとどめの一発を撃ち込まれて改めて穴に放り込まれた。

嘉陽の次は、うつぶせになった仲宗根と前川の2人が堀り出された。嘉陽ほど腐敗は進んでなかったが、2人の識別はできなかった。3人はこの現場で比嘉らに短銃を突きつけられ「勇吉の居所を知っているだろう。早くいえ」とおどされた。「勇吉の居所は知らない」と答えると3人に加害者グループは、突きつけていた短銃数丁を雨アラシのように乱射した。

夏の強い日ざしのもとにあばき出された犯行現場は生々しく暴力団同士の殺し合いとはいえ、常人には考えられない、むごらたしい様相だった。発掘作業は同日午後5時、終わった。解剖は那覇に3人の遺体を運んで行うことになった。(昭和50年7月25日付琉球新報11面)

この事件に限らず、暴力団抗争に関して、彼ら暴力団は一度たりとも暴力の行使を正当化したことはありません。これは紛れもない事実で、建前はいつも “本当はやりたくないのだが(やむを得ず)” です。例外は1件もありません。

つまり暴力団たちは、沖縄青年委員会代表の山城幸松氏や県反戦の佐久本清氏のように、「機動隊の死は県民の意思を妨害するものの結果であり、当然のむくいだ。ただ死そのものを現象面でとらえてはならない。暴力には暴力で敵対していく」と “正義の暴力” を公言することは絶対にありません。必要悪と割り切っているがゆえに暴力の及ぶ範囲は限定されるのです。

ところが、“正義の圧力” を標ぼうする輩は違います。彼らの圧力が及ぶ範囲は原理上無限の広さなのです。だからこんな輩にかかわると身体的・精神的にも大きな負担になりますし、マスコミなどの組織にとっては大変な重圧になります。ましてや社会的地位を確立している場合は “かかわらない” ほうが無難なのです。

これが本物の暴力の恐ろしさなのです。

11.10ゼネストは、本物の暴力の恐ろしさと、パニックに陥った際に個人や団体の “本性” が露わになることを後世に伝えるべく、起こるべくして起こった事件ではないかとブログ主は確信して今回の記事を終えます。