たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その2

(続き)今回は、玉陵(たまうどぅん)について言及しますが、実はこの建築物は調べれば調べるほど “矛盾” だらけなのです。参考までに『球陽』をチェックすると、「尚圓王已ニ薨シテ、見上森ノ陵ニ葬ル。今番新ニ玉陵ヲ中山坊内ノ池ニ築ク。前ハ首里ノ大街ニ臨ミ、東ハ天界寺ヲ側ニス。先王尚圓王ヲ奉シテ、コノ玉陵ニ移葬ス。」とあり、見上森の陵(みやーぎむいうたき)に埋葬されている尚円王の霊骨を、1501年(尚眞王即位25年目)、玉陵に移葬したと記述されています。

玉陵については、実は正確な建築年月が分かっていません。通説では1501年ですが、それは尚円王の遺骨を移葬した年、あるいは「たまおとんのひのもん」が建てられた年というだけの話で、少なくとも1501年か、あるいはそれより前に完成したのではと推測されます。

しかも、建築目的が謎なのです。というのも、先に引用した『球陽』には「先王尚円王を奉じて移葬」と記載されてますが、移葬した理由については全く言及していません。1476年に尚円王が薨じた際、王の埋葬場所なんて適当な場所を選ぶはずもなく、神官たちが慎重に卜(ぼく)して埋葬地(見上森)を選定し、吉日を選んで盛大な葬儀を行ったはずなんです。

つまり、如何に尚眞王の権力が強かろうが、王の一存のみで先王の霊骨を別の埋葬地に移葬するなんてできるわけありません。しかも、先王の御霊を慰める名目で、1494年に円覚寺を建立しています。そのため、見上森の陵に何らかのトラブルが発生したのであれば話は別ですが、尚円王の遺骨を移すために新たな王墓を建築する必要性はないかと思われます。

仮に尚円王の冥福を祈るために、新たに王陵を建築したならば、碑文の内容は間違いなく “祝辞” になります。例えばブログ主の創作ですが、世あすたへ(三司官)の連名で、こういう感じの内容の碑文になってもいいはずです。

大りうきう國中山王尚眞は、このたひ、先王のみたま(御霊)を御なくさむるへく、ちうさんほうない(中山坊内)にみささき(陵)をきつく(築く)へく御ミ御ミ事(=詔)あり、その御こころもち、りうきう國、たう(唐)、なはん(南蛮)にきこゑ、きようしゅん(堯舜)の御代のせいわう(聖王)のごとく名高いお方である、そして王墓は無事完成し、本日、無事納骨されました、まんせーまんせー 大明弘治四年吉日

あるいは、妹である初代聞得大君の神託でもいいかもしれません。

きこゑ大きみきや、たまおとんけらへ、ゑか日えらひて、かなまるあんしすゑつきのわうにせ、なぐさむる、おきももち、ちやくに、たう、なばんに、とよみ、あんちおそいす、ともゝすへ、ちよわれ

(私は)名高く鳴り響く大なる神(聞得大君)である。国王は玉陵をお築きになり、吉日を選んで、尚円王の(霊骨を移葬し)御霊を慰める立派なお心持ちは、りうきう(だけでなく)、唐、南蛮にまで鳴り響き、(それゆえに)尚眞王は千代に国にいましませよ。

だがしかし、実際には王の詔で呪いもどきの物騒な内容の碑文が建てられたのです。そうなると、玉陵は王墓としてではなく、

別の目的で建築された

と考えたほうがいいかもしれません。次回はこの点について言及します。(続く)