浦添・川平親方の嘆願書

ここ数日の間、ブログ主は琉球藩時代の資料を基に記事を作成していますが、今回は明治5年(1872年)9月4日(旧暦)に三司官(浦添親方、川平親方)より在番所(琉球国内に設置された鹿児島県庁の出張所)に提出された嘆願書について言及します。

この嘆願書は前年11月の宮古島島民遭難事件に対し、朝廷(明治政府)側が台湾出兵を計画しているとの風評を聞いた王府側が、かくかくしかじかの理由にて出兵はお取り止めしてほしい旨記載し、在番所経由鹿児島県側に提出したものになります。ブログ主は今回初めてこの嘆願書を目にしましたが、この中で当時の琉球王国をとりまく国際環境が伺える内容が記されています。史料は東恩納寛惇著『尚泰候実録』204~204㌻から原文を写本し、今回も試みにブログ主による読み下し文および解説も併記しました。読者のみなさんぜひご参照ください。

・東恩納寛惇著『尚泰候実録』204~204㌻より抜粋した原文は下記参照ください。

(中略)是れより先、政府臺灣問罪の計書あり。事琉球に聞ゆ。是れよりして或は淸國と事を構へんかを恐れ、九月四日、書を在番所に上りて、其の事を罷(や)めん事を協る。其の文に曰く、

去年宮古島行馬艦船臺灣府之内生番と申所漂着乗込人數之内逢暴殺候段朝廷被聞召通御征罰可被仰付之由世評有之段琉球館より申越有之候然は當地之儀御國元御幕下之段唐え相知候ては差障候付往古より隱密仕事候得共内實は能相知候哉時々懸引等有之尤漂着人共生番にて逢暴殺候も去年の事に而御征罰被仰付候はゝおのづから琉球より申上件之御企致發起候筋に推察屹と被及僉議何様の難題か可致出來哉も難計別而念遣存申候右通暴殺之仕形誠に可悪事にて御征罰之思召も可有御座候得共此段者於唐も不被押置即及奏文成行糺方之上強暴者共可被相戒由禮部咨文を以被申越置候も有之候間右通當地難題の機先相見得候次第旁被聞召上御征罰之儀は御取止被仰付被下候様願可申上旨此節琉球館え申越事候得共猶御在番所よりも御國元え宜様被仰上越何卒御征罰御取止相成候方に御取計被下度奉希候此段御賴申上候以上

申九月四日 浦添親方、川平親方

・上記原文のよみくだし文と解説は下記参照ください。

去年宮古島行〔きの〕馬艦船(マーランセン)〔が〕臺灣府の生番(生蕃)と申〔す〕所〔へ〕漂着〔し〕、乗込人數の内暴殺〔に〕逢いそうろう段、朝廷聞し召され通〔り〕、御征罰(征伐)仰せ付けらるべく、この由〔の〕世評これありの段、琉球館(鹿児島に設置された琉球出張所)より申し越しこれありそうろう。

*明治4年(1871年)11月に発生した台湾での宮古島島民遭難および殺害事件に関して、朝廷(明治政府)より台湾へ出兵する風評があり、この件に関して琉球館から報告がありました…の内容です。この嘆願書を提出した旧暦9月4日時点で琉球国は鹿児島県の管轄下にありました。

然〔らば〕當地(琉球藩)の儀、御國元(鹿児島県)御幕下の段、唐(清朝)へ相知りそうろうては〔進貢接貢の〕差障りそうろう〔に〕付、往古より隱密(隠密)仕(つかまつる)る事そうらえども、内實(内実)はよく相知りそうろう哉(かな)、時々懸引(=臨機応変にふるまう)等これあり。

*琉球は鹿児島県管轄下にあることが唐(清朝)知れると進貢接貢の差障り(都合わるい)になるため、従来より(鹿児島県管轄下にあることは)隠密(極秘)にしておりましたが、実際は相手もうすうす察知している様子で、時々臨機応変に対応することもあります…という内容です。琉球が鹿児島県の管轄(旧薩摩藩の事実上の支配下)にあることは清側も知っているだろうと述べています。つまりこれまでお互い見て見ぬふりしておつきあいをしてきたということになります。

尤も(=ただし)漂着人共、生番(生蕃)にて暴殺〔に〕逢いそうろうも、去年の事にて、御征罰(征伐)仰せ付けられそうろうはば、おのづから琉球より申し上げ〔た〕件の御企て發起(=企てを起こすこと)致しそうろう筋に推察、きっと僉議に及ばれ何様の難題か出来(しゅったい=事件が持ち上がること)致すべく哉(かな)と計り難く、

*ただし宮古島島民遭難の件は、去年(明治4年)の事であり、もしも朝廷から鹿児島県へ台湾出兵を命じられた場合、この件の首謀者(あるいは言いだしっぺ)は琉球側ではないかと推察され、清国側がらどのような難題(言いがかり)を突きつけられるか予測できず…の内容です。

別して(=特に)念遣存申候、右〔の〕通〔り〕暴殺の仕形(仕業?)〔は〕誠に悪しき事にて御征罰の思し召しもあるべくござそうらえども、此の段は唐(清朝のこと)も不被押置(=捨てて置けないの意味か?)、則ち奏文に及び、成行〔を〕糺方(=罪など問い調べる)の上、強暴者共〔は〕相戒めらるべく由(よし)、禮部(れいぶ=官庁)〔より〕咨文(しぶん=外交文書)を以て申し越られ置趣もこれあり〔の〕事そうろうあいだ、

*宮古島島民遭難の件は当然ながら相手側(台湾生蕃)に非があり、よって(朝廷より)出兵が命じられることがありましょうが、この案件は清朝側も見逃すことができない事件であり(福州総督より北京へ?)報告済みにて、事件調査の上加害者処罰等の処置を(清側が)行う旨の外交文書が届きましたことですし…の内容です。なお翌年(明治6年)6月、北京における対日外交において清側は、「台湾東部は化外の野蕃」と説明し「我が政令の及ばざる所」と明言しています。日本と琉球への説明が明らかに食い違い、この件に関して清朝側は二枚舌を使っていることが分ります。

右〔の〕通り當地(琉球)〔に〕難題の機先〔が〕相見えそうろう次第、旁(かたがた=いろいろ)聞し召めされ〔の〕上、御征罰の儀は御取り止め仰せ付けられくだされそうろう様願い申し上げるべく旨、此の節〔は〕琉球館え申し越し事そうらえども、猶(なお)御在番所(琉球藩に設置された鹿児島県庁出張所)よりも御國元え宜〔しく〕仰ぎ上り越され様、何卒(なにとぞ)御征罰〔を〕御取り止め相成りそうろう方に、御取り計らい下さりたく希(ねが)いたてまつりそうろう、此の段御頼み申し上げそうろう以上。

*これまで述べたとおり(この案件では)琉球に難題がふりかかるかもしれず、それゆえ台湾出兵は取り止めてほしい。すでに琉球館から鹿児島県庁側に申し出たことではありますが、(今回あらためて)在番所からも(この嘆願書)を県庁に提出していただきたい…という内容です。清国からこの案件で無理難題を吹っかけられる恐れから、土下座する勢いで嘆願していることが伺えます。

今回の史料をチェックしたうえで興味深い内容は2点あり、

・琉球が鹿児島県の管轄下にあることは、清朝側もうすうす察知しているだろうと琉球の高官が言明していること

・宮古島島民遭難事件について、清朝側が二枚舌外交を展開していること

になります。二枚舌外交については後日改めて言及しますが、琉球の高官が日支両属の状態を清国も把握しているだろうと言及している史料は今回初めて確認できました。やはり当時の琉球および清国の為政者たちには主権国家という概念がなく、それゆえに琉球の日支両属体制が容認されていたことが伺えます。そしていまもむかしも”おとなのじじょう”に触れないことが末長く付き合えるコツなんだとブログ主は勝手に結論つけて今回の記事を終えます。