権力の継承 ~ 尚円王統の致命的な欠点

前回の記事において、源武雄さんの論文「王代記から見た尚家の家督相続」を参照にトートーメーにおける3大タブーについてブログ主なりに説明しました。今回はトートーメーのタブーを通して尚家の家督相続について言及します。

ちなみにトートーメーにおけるタブーは18世紀以降、王族や士族社会に徐々に定着したことが考えられます。理由は系図座の設立(1689年)によって王族や士族の間で”家督相続のルール”が強く意識されるようになったからと仮定していますが、今回はこの件については言及しません。18世紀以降に定着したと思われるルールを15~16世紀の王家における家督相続に当てはめて考えるのはちょっと無理がありますが、それでもきわめて興味深いことに気がつきましたので読者の皆さん、是非ご参照ください。

まずは源武雄さんの論文をベースに、ブログ主が尚円王統の3代尚円から7代尚寧までの継承についてまとめてみました。

この図からもお分かりの通り、タチー・マジクイ(他血〔族〕交わり)のタブーは守られていますが、チョーデー・カサバイやチャッチ・ウシクミのタブーは守られていないことが分かります。つまり王位の継承に厳然たるルールがなく前王の恣意的な判断で行われていたことが伺えるのです。

なぜこのようなことになったか、それは第3代尚真から尚清への王位継承に原因があります。山里永吉先生曰く”宿命の人”である尚真王の長男尚維衡が「父に疎まれている(その理由は割愛)」という恣意的な理由で王位を継承できなかった前例を、子孫が見習ってしまい結果として王統が乱れ傾向になってしまったのです。ちなみにブログ主なりに系図を作成しましたのでご参照ください。

王位の継承は時の政権における最重要課題ですが、タチー・マジクイ以外の厳然たる継承ルールを定めず、つまり致命的な欠陥を抱えながら尚家は王国を運営していたのです。ブログ主はこれらの図を作成しながら「よく内乱が勃発しなかったもんだ」と驚きを隠せませんでした。ちなみに尚家における王位継承が安定するのは慶長の役以後、*つまり第8代国王尚豊からになります。

*10月08日訂正:尚家における王位継承が安定するのは、10代尚質王以降からです。

異様極まりない尚寧の王位継承

この件は触れるかどうか悩んだのですが、第二尚氏における王位継承のなかでも際立って異質なのが第6代尚永から第7代尚寧のケースです。参考までにトートーメーにおけるルールを適用すると、第6代から7代の継承は下図のようになります。

第5代尚元には3人の息子がいますが、次男の尚永が王位を継いだ以上、長男の尚康伯は「いないもの」と扱われます。第6代王尚永には男の子が生まれなかったので、その場合には3男尚久の息子(次男以下)を養子に招いて王位を継承するのがトートーメーにおける継承ルールです。

ところが尚永王は甥(妹の息子)である尚寧を婿養子に取り立てて王位を継承させます。これはタチー・マジクイのタブーは守られていますが、男系継承のタブーすら破ってしまったきわめて異例のケースといわざるを得ません。そして今後このような継承は一切行われていません。

尚元王の息子たちの間になにがあったのか?

もしかしてこの件を追及するのは琉球・沖縄史におけるガチのタブーなのかとうすうす感じつつ今回の記事を終えます。