彽徊趣味断片 – 此一篇を末原實一郎氏に捧ぐ –

今回は大正13(1924)年4月発行の『沖縄教育』から「彽徊趣味断片」と題した随筆を紹介します。筆者は当時編集長を務めていた又吉康和さんで、往年の首里郊外の景観が美しい文章で紹介されています。

原文はすこし読みにくいところがあったので、思い切ってブログ主が旧漢字を訂正しました。プラス”其の”や”尙ほ”などの現代では使わない用語もひらがなに変換することで原文のよさを損なうことなく、現代人にも読みやすい文章に編集しました。音読することをお勧めします。大正時代の知識人のレベルの高さを実感しつつ、当時の首里郊外の情景が目に浮かんでくる名文です。読者の皆さんぜひご参照ください。

彽徊趣味断片 – 此一篇を末原實一郎氏に捧ぐ –

一 梅一輪一輪ずるの暖さを覚ゆる或る年の早春、下宿の老夫婦に誘われて亀戸の臥龍梅を見に行ったことがある。私は始めてのことで以前のことは知らなかったが、この老夫婦は、昔の悌が失われてゆくのを惜がっていた。- 本所辺の工場の煤煙のため毎年毎年傷つけられて行くそうである – それにも拘らず大勢の人々が梅見に来るのは嬉しいような気がした。殊に一株気高く咲いている梅を讃する老夫婦の科(しな)や洒落が私の気に入った。老夫婦は江戸趣味に育まれた人々で、現代のいまいましい感は毫(すこし)もなく、暖い、のんびりした、明い好い感じのする人であった。

私共は柔い春風に吹かれ乍(なが)ら、杵川(きねかわ)堤を伝わって向島に出て「言問(こととい)」の団子に軽い労を癒し、昔、〔在原〕業平朝臣が下総に国へ渡る時詠じた「名にし負はば言問はん都鳥……」と共に竹屋の渡しを渡り、最も江戸趣味の残っている待乳山(まつちやま)に登った。そこひらは既に夕靄(ゆうもや)に包まれて、都鳥の胸毛の白さのみが目立っていた。「あはれとは夕超へて行く人も見よ、待乳山に残す言の葉」と彫(きざ)める碑の下に立って、夕潮の流れに漂う、屋形船の閉切った障子のかげから漏れる、低い三味線のささやきに、柔い、甘い都会情調に育まれた、爛熟した大江戸を偲び、浅草に「やっこ」で夕餉(ゆうげ)に有り付いた、春の遊びを今に忘れない。

こうした懐かしい感を、吾々は吾々の生れた故郷で味うことは出来ないものであろうか。いにしへの哲学者は「汝の立てる所を深く掘れ、そこには泉あり」と云ったそうである。私は今其の泉を掘り出す心持で、暫く彽徊趣味を味って見たい。

二 私は先づ首里方面を探って見よう。首里は到る処王朝時代の歴史があり、伝説が伝っているから何処を散歩しても趣味あるものである。しかしとり分け、私は守礼の門からハンタン山を下り、弁才天辺りまでを愛す。綾門(あやじょう)大路を首里城へと進み、守礼の門を這入(はい)ると現代を忘れて王朝時代の雰囲気(アトモソフィア)が彷彿する。記録によると、守礼の門は明の嘉靖年間、尚清王時代の創建である。当時は「待賢門」と称し「首里」の二字を扁額に掲げ俗に「首里門」ととなえたそうだが、民の万歴八年即ち我が天正八年、尚永王命じ給い「守礼之国」の四字を大書せしめ、冊封使渡来の時、是れを掲げしめたと云うことである。しかし平素はなお「首里」の扁額を掲げしめてあったが、尚賢王時代、清の康熙三年我寛文三年に至って遂に「守礼の邦」の四字を扁額にしたそうである。小国の悲哀が扁額にまで及んだことなど思い浮べ、如何に当時の政治家が対外政策に苦心したろうかと月併(つきなみ)のことを考えながら立ち止まって後〔を〕振り返ると、綾門の名は吾々の耳になお床(ゆか)しく響くに拘らず、荒廃気分が一入(ひとしお)薄(せま)って来る。其の昔中央政権成り、盛んに首里政府の儀礼を装うていた綾門の殷賑さを思い浮べ、この門もまた、何日か中山門と同じ運命になりはしないかとつまらない心配をした。

時勢に従ってこれに順応するように新しい市街が建設されるのは当然であろう。私は決して新しい道が開かれたり、電車が敷かれるのを悲しむものではないが、これと同時に、自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならないと思っている。かつて真境名笑古(安興)氏は「首里は寧ろ伊太利の如く、凡(すべ)て古い物を保存した方が新しい発達を望むより首里の繁栄策として当を得ている」と云われたことがある。私も那覇と全然趣きを異にしている首里は出来る丈(だけ)昔のままの首里を保存し、静寂の美を失わんように希(ねが)うものの一人である。

守礼門の左側は園比屋武(そのひやん)嶽で、その背面は即ち龍潭である、丘上樹木繁衍(はんえん)し、首里王城の花樹園であったそうで、尚巴志王朝に営まれた、琉球最初の花樹園であったとか。中央に一石門があって板扉を立ててある。前に石の香炉を安置して四民香火の霊としていることは今も変りはない。むかし国王出発の時、異変があったら神が必ず現れて、是を警(いまし)めたと云う伝説がある。

これからハンタン山を下って行くと、両側には千古の老樹鬱蒼として生茂り、湿っぽく苔むす所、如何にも古めかしく、温い、柔い情趣は思わず杖を止めさせる。これから夏になると円鑑池に蓮浮び、観蓮池(天女橋とも云う)龍潭橋等の天然の絵図に対しては入相(いりあい)を告げ、月静かに上り、園比屋武嶽の影黒く、月光白く池の水に映ずる情景は、蓋し逸品中の逸品であろう。私は首里の中で時にこの辺(あたり)を愛するものである。

三 これからまっしぐらに普天間街道のダラダラ坂を下り、赤平(あかひら)に渡る矼(いしばし)を渡って右に折れ、更に左に曲り約一町位行くと荒れ果てた大名屋敷の跡があちらこちらに散在している。右側はかの有名な蔡温具志頭親方の屋敷跡で、未だ当時の建物が幾部分残っている。左側は本部御殿の跡、歌聖本部按司(だいんす御前)が住んだ所、その隣が蔡温の相役たりし識名親方の屋敷であったそうだ。琉球の黄金時代(ゴールデンエイジ)を現出させた、尚敬王時代の政策は此処(ここ)で画策されたのだと思えば荒廃した土に対しても懐かしい感がする。其の当時識名親方と具志頭親方との勢力争〔い〕で、その子分達が相反目して暗闘が絶えなかった。しかして一問題に対し一方が賛成すれば一方は必ずこれに反対した。しかし一旦国家の緊急問題を議決せんとする場合には、この両雄が出仕前に二階に昇り – 二階と二階は向合って居たそうだ – 旗を振り互いに意を相通じて置いて、一方はわざと表面反対と見せかけ、実際上の一致を見た苦心談がある。党勢拡張の為め国事を犠牲にして省みない現代の政治家共に、其の爪の垢でも煎じて飲ましてやりたい位である。

今は甘藷畑に変っている本部按司(だいんす御前)の屋敷に這入って見る。或る日だいんす御前と琉歌の輸贏(ゆえい=勝ち負け)を決せんと彼の友人が訪づれた。恰度(ちょうど)だいんす御前は裏の座敷で肘を枕にうたてねしていた。友人は黙って馥郁(ふくいく)たる香を放っている庭の梅一枝を折って、彼が寝ている畳と畳の間に挿した。間もなく彼れは眠より覚め、欠伸と共に手を差し伸ばすと、梅の枝が袖に引っかかった。彼は直ぐ『ねざめおどろきに誰か袖ゆとめば庭に咲く梅のしほらし匂』と口すさんだ。その時友人は琉歌はどうしても彼に及ばないと嘆賞したそうである。その梅は今はないが、多分この辺に植えられてあったに違〔い〕ない、座敷は此処であったろうと平凡な感興に沈りながらも、なお彼等の風流生活を追懐したことがある。

四 此処まで来た人は序に虎頭山(とぅらじやま)に登りたくなる。虎頭山に登るには聞得大君御殿(ちふじんうどぅん)の坂路を登り、左に折草を踏んで行ったら楽に行ける、しかし元尚琳男爵家の跡わき、舗石道を登ったら近い。以前は尚家の別荘があったそうで物見台が未だ残っている。遠くは蒼海原に、ローマンスの島、慶良間が夢のように浮いている、眼下には首里市街を瞰下(みおろ)し、更に眼を北の方に転すれば、気分一変、農村生活のささやかな輪郭を見ることが出来る。石峯の頂、松林の中には五代伊江王子の営まれた、伊江男爵家別荘がある。自然の巌をあしらって雄大な男性的風致を織り出し、岩根から清麗な水が混々として湧く新鮮(フレッシュ)な情景は、直に人の心を掴(とら)える。池の囲いの山には梅、藤、桔梗、萩、月と四時の眺めも美しい。私は時折多趣味な馬巌男爵をここにお訪ねする時、現代に対する反感を忘れて、七重の膝を八重に折るのも厭(いと)わない。実は本部按司だいんす御前の話も男爵に承ったのである。その東、こんもり繁った林の中には、豊見城御殿の別荘がある、此処はまた奈良や京都に遊ぶ感がする。この二別荘は本県に於ける双璧で、成金輩の企図(きと)し能はざる所である。

少々横道に這入ったが、『虎頭山出る秋のお月、くもりないぬ御代のかかみさらめ』など虎頭山は歌の名所として、古来眺望を以て聞えている、石虎山又は虎峰と云う修辞がある。丘の松は尚清王時代に植えられたもので、これには一ツの挿話がある。(尚真王の嫡子に、月浦公と云う王子がおられた、月浦公は父王の怒りに触れて、廃嫡となって、王家を追い出されたのを、那覇の住人我那覇氏が自分の内に庇護し奉った。尚真王崩じ玉い、四男尚清位を継ぐに及び、伯夷淑斉の古事を学ばれて、兄王子月浦公に位を譲られたが、月浦公は固辞されたので、不已得(やむをえず)尚清、位に即き給い、尚清王の代となった。その時月浦公は浦添城に封じられた、しかし、浦添城からは首里王城が見えたので、月浦公は御遠慮し給って虎峯に松を植えさせられたそうである)。なお茲処(ここ)は朝夕の変化に富み、朝日の輝き、夕日の美観、月夜の景、雲翳の変化等美術家を喜ばすことであろう。鷺泉(ろせん)男爵家(=松山御殿)の紅黎山房に座して虎峯を眺むる時は、其の庭と松林と奇岩の配合の趣、宛然絵を見るようである。鷺泉男(=尚順)も亦、この離れを営む時、此の奇岩と庭とを結び付け、その輪郭を描ける周囲の配合に苦心されたそうである。

五 海の美を描くものは、波打際まで描き、首里の美を説くものは首里郊外を行く、荒廃した首里市中を歩いては何の追懐も、美感も起らないものでも、まだ王朝時代の趣きの残っている郊外は、美しい追懐の情を呼び起すものである。私は或る日の春の日、友人と共に社壇に遊んだことがある。綺麗に石を舗いた、古琉球の道を行くと、竹薮があったり、思うままに枝を伸して居る古松があったり、寝ころんで見たいような青い芝生もある。その芝生に立って、下の谷底を瞰下(みおろ)すと、奇岩が多く、地滑りした跡が谷の半〔ば〕を埋め、これらの陰翳が彼方此方に交叉して凄味を見せている。道は次第に赴きを増し、足は自ら遅くなり、五歩にして停り、十歩にして考えて見たくなる。数町行くと幽邃(ゆうすい)な所がある、そこには「森川子」の家を思い出す茅屋がある、庭で薪を割る老人の傍に、鷄が二三羽長閑に餌を探していた。私は自然と人生を結び付けて考え乍(なが)ら山を登った、若葉が白絹のような、やさしい光沢を帯び、春風に揺られていた。大きな岩を登って、更に橋を渡ると一つの社がある。即ち社壇である。末吉万寿寺の領社であって、七社の一つである。社は尚泰久王時代に、天界寺鶴翁和尚の勧進ということであるが、熊野神を祠ってある。以前は鬼面があったが今はない、社も大方は頽廃している、寔(まこと)に惜しいことであると思った。社前に腰打ちかけて、シガーを吹かし乍ら、黙想し回顧すれば首里の中央に高く聳える国殿は、彌(いや)が上に厳しい。そして美しく、幽(かす)かに濃い緑に抱かれた首里の情景が、優しく、懐しく、我心を惹き附けて了った、それから四方に擴(ひろが)る田や畑は恰も大洋の波の如く、大いなるスローブを創ってその間の木の梢から草の葉の末に到るまで火と熱とに溶け渡っている。うつらうつらと酔っているようで、我が魂もまた大自然に薫然(くんぜん)とし酔うのである。暫く友人と雑談に耽っている裡に、虎頭山の浮雲が赤く染り、間もなく、落日の美観に接することが出来た。

明治の文豪、独歩氏は武蔵野を散歩する時、道の真中に杖を立てて、その仆(たお)れる方向に行ったと云うが、そうした悲観的なことはせずとも、最初からどこと目ざして行っても、決して失望することはない。生の観楽(たのしみ)を感ずるように、萌え出した新緑に薫んずる春風を、軽い単衣の袂(たもと)に受けながら、春の一日を郊外に遊ぶのも、また人間に恵まれた幸福な行楽の一つではなかろうか。(古い日記より)