ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その7

□ベトナム戦争時代のバンド契約 ベトナム戦争時代〔昭和50(1975)年4月まで〕のバンド契約は、一九六六年か六七(昭和四一か四二)年ぐらいで私たちのバンドは月に二〇〇〇ドルでした。そのころ、だいたい良いバンドで二〇〇〇ドルから三〇〇〇ドル、普通のバンドで一二〇〇から一五〇〇ドルぐらいでした。この一五〇〇ドルを四人で分けたとしても、そのころの銀行員の給料が月に一〇〇ドル近くになっているから、四倍ぐらい貰っていることになります。

店の売上金を段ボール箱に入れるほど、(アメリカ人は)お金を持っているから、女性が「Buy me drink(私に一杯おごってくれない)」というと、すぐ三〇ドルから四〇ドルの飲物をおごってくれましたが、現在は二〇ドル出しなさいというととんでもない、今のアメリカ人は一ドルでもお釣りを欲しがります。

□ベトナム行きの誘い ベトナム戦争が激しいころ、私たちのバンドは、金武、辺野古、波之上、それにベース(米軍基地)廻り、もちろんセンター通りやゲート通りでも演奏していました。

また、その万事戦争中に、私達(コンディショングリーン)はベトナムまで行く予定だったんですよ。しかし、メンバーの一人で、あのとき一七歳だったギターのシンキ(洲鎌よしひろさん)一人だけ賛成しなくて「僕死にたくない、死にたくない」って、嫌がったんです。それで、「アラン・ドー・ンレー(違うよってば)、いいか演奏するところは電源が入れられるところで、照明があるところで、ステージがあるところさー」と説明したんですが、「アラン・ヨー(違うよ)カッちゃん。ベトナムは今どんななっているから、アマカイ・ンジー・ネー・マーンジ演奏シミラ・リー・ガ(あそこ行ったら、どんなところで演奏させられるかわからないよ)」と絶対聞く耳持たないんです。しかし、私もまた「その最前線じゃなくて、アッター・ガ・バンナイ・バンナイけんかして(米兵がドンパチ戦って)引き揚げてきて、シャワー入って、食べているところでやるはずよ、

たぶん。

だから、安心だから、月五〇〇〇ドルだよ、イカ(行こう)。行こう、大丈夫シンキ、任せなさい。あれ屋根もあるんだよ。コンクリートで、防弾ガラスよ、たぶんあそこだから。だからシンキ、シカマン・ケー(びくびくするな)大丈夫」といって説得したんですが、「イイーン(いやだ)、お金じゃないよ。これはもう怖い怖い」ということでベトナム行きはだめになりました。(続く)