沖縄の百年 第一巻 / 人物編 近代沖縄の人びと / 岸本賀昌

1868年(明治1)年那覇市に生まる。1882(明治15)年第一回県費留学生として上京、学習院や慶應義塾に学ぶ。沖縄県庁勤務から内務省に抜擢されて町村課の係長となり、石川県参事官、沖縄県参事官、同学務課長を経て1912年(明治45)年沖縄で初の衆議院議員選挙に当選、国政に参与する。晩年は那覇市長。公務で上京中1928年(昭和3)年病没。61歳

岸本賀昌は小柄な男だった。しかし、彼は第一回の県費留学生として東都に学び、さらに初の国会議員選挙には衆議院議員に選出されて国会へ送られた。ちびっ子がつねにエリートの先端を切って歩いたことになる。

小さな男には、おうおうにして権勢欲の強い人間が多いものである。ナポレオンもスターリンも、小柄な男だった。しかし小さな男には、一方、ユーモリストも多い。チャップリンもエノケンも、それに吉田茂も小柄な男である。

岸本賀昌はどうやら吉田茂に似て、小柄だがウィットに富み、それにほどほどに権勢欲も旺盛な男だったように思える。権勢欲といって語弊があるならば、ファイトといいなおしてもよい。彼はファイトをウィットに包んで、その小柄というマイナスを逆に活用しながら、出世街道をのしあがっていった愉快な男だったように思える。

神山政良は、「沖縄の夜明け前」と題する新聞の座談会で、岸本について次のように述懐している。

「私は岸本さんのことで印象が深いのは、あの人がはじめて高等官になったんだね。とにかく石川県でしたか、岸本さんが沖縄の人に与えた影響は大きいです」。

太田朝敷の『沖縄県政五十年』には「四十万県民中唯一人の高等官たりし謝花昇」とある。岸本と謝花と、いずれが沖縄で最初の高等官であったか、この点はしばらく不問にするとして、いずれにせよ、岸本が当時沖縄でまれな高等官として、後輩に刺激を与えたことだけはまぎれもない。ところで、こうしたはなばなしい彼の出発のかげにも、やはり彼のファイトがほのみえる。

ファイトといえば、東京に送られた第一回県費留学生のうち平民の謝花が農科大学を卒業したほかは、他の士族たちのうちでは、わずかに岸本だけがちゃんと大学を卒業したという。他の連中は学習院から高等師範や慶應義塾へ進みながら、うやむやのまま帰郷したらしい。士族のうちでは、岸本がちゃんと一本背骨の通った人間だったことがわかる。

彼は大学を卒業後、出世街道を進んだ。しかし、出世街道を進みながら、岸本はほとんど敵をつくっていない。そこに、彼の天性のウィットが幸いしていたように思える。彼は自分の小柄という劣勢を補うのに、決して反抗的なポーズをとらなかった。それに笑いをまぎらせながら、まんまと自分の思うつぼにまわりをはめこんでいった趣がある。

第一回県費留学生の記念撮影というのが残されているが、それをみると、五人のうち、小柄の岸本が前列の中央の席に陣取って、取りすました表情の底にキョトンとおどけた表情を沈めて腰かけている。あとの四人は、その岸本を守るように彼のまわりを取りかこんで、立ったり腰かけたりしているのである。ウィットに富んだこの小柄の男には、誰もが心を許して敵対心などいだかなかったに違いない。

岸本の機知は、実際、板についたものだったらしい。「あれは柔道五段だ」というと、すかさず、「君、それはヨダン(四段 – 余談)だろう」とやりかえす。仲間が議論して一座が険悪な空気に包まれたときでも、彼の間髪いれぬウィットで、みなは笑いころげてしまう。こんな調子だったらしい。

それでこの小男は友人の人気のまとになって、岸本、岸本とどこでも引っぱりだこだったという。彼の酒好きも有名だが、よく彼は友人をたずねていって、留守宅に上がりこんで酒をチビチビやっていることもあった。それで帰ってきた友人になじられるかといえば、そうではない。彼の笑いにひきこまれて、すぐに彼のまわりにはにぎやかな酒席ができてしまう。岸本の天衣無縫ぶりがしのばれる話である。

こんなふうだったから、彼はまとめ役としても貴重な存在だった。ケンケンゴウゴウとして一座がまとまらないときでも、岸本が姿をあらわすとすぐに意見がまとまってしまう。日露戦争のとき、沖縄にもいくらかの国債が割り当てられた。時の奈良原知事がこれを聞いて、「いやしくも日本帝国が沖縄から金を借りるなど、もってのほかだ」と怒った。ところが岸本が例のウィットで説きふせたので、さすがに奈良原も「ああそうですか。じゃあ君にそれは一任する」ということになったという。

が、その岸本にも、悲しみはあった。彼が酒をはじめたのも最愛の妻を失ったためだったというから、いじらしい。彼の最期がまた、そのやさしさとウィットをまるだしにしたような最後で、ペーソスにみちている。

岸本は那覇市長で公務のため上京中、病に犯され倒れた。その前に彼は、娘夫妻の結婚の日選びに銀座の赤龍子をたずねた。そのとき、岸本をみて「君には長寿の相がある。八十はまちがいない」と、赤龍子はいった。病気で切開というとき、岸本はかたわらの娘夫妻にいったという。「おれが死んだら泣く人が一人いる。知っているか」。二人が首をかしげると「それはおれの八十を保証した赤龍子だよ」。(65~67㌻)