尚泰候の決断 その2

(続き)今回は尚泰候の決断について、予備知識として藩王時代の明治8年(1875)9月(新暦)の騒動について言及します。彼は有事の際に断固たる判断ができない為政者のイメージが強いのですが、実は例外的に “決断” を下したが故に酷い目に遭いかけた痛い過去があるのです。

その後の藩王は廃藩置県の明治12年(1879)まで毛利敬親の如く “そうせい候” の状態になってしまいますが、ブログ主はそれ故に明治29年(1896)の「断固たる決断」には強い違和感を覚えるのです。

少し話はそれましたが、尚泰候が藩王時代の明治8年(1875)、明治政府からの「御達書」の対応で琉球藩は窮地に陥ります。「御達書」の中に琉球藩として絶対に受け入れることができない案件(清国との関係断絶、藩王の上京など)があったので、すぐさま返答できない旨明治政府側に伝達するも、聞き入れてもらえず、同年7月に来琉した松田道之との交渉でも全く進展がなく、最終的には琉球藩の態度にブチ切れた松田が「御受けしない(すなわち朝命違反)」と見做して帰京すると宣言し、実際に帰る手はずを整えます。それが同年9月5日。

※なお、文中の年月日は「琉球見聞録」の記述に従い、我が国で明治6年(1873)から現在まで利用されている太陽暦(グレゴリオ暦)を使用しています。

ちなみに、なぜ松田がブチ切れたかについて説明すると、琉球藩側が「御達書」を受けるか否かの態度を鮮明にせず、ひたすら回答を先延ばしにしたあげく、次のような正式回答を送ったからです。(回答は「琉球見聞録」巻二からの引用)

當藩支那との續き五百年の緣由有之信義の掛る所にて斷ち絕候儀難致是迄通被仰付度松田道之へ段々願申上候得共御採用無御座其儘御請仕候藩中人心の安んせざる所にて使者立てを以て政府へ申上乍ら此上御採用無御座候はば御請可申上段三司官口上を以て奉願候得共此儀も御聞取無御座然迚直様御請も難仕次第御座候此段申上候なり

明治八年九月五日 琉球藩王尚泰

太政大臣 三條實美殿

大雑把に意訳すると、「わがりうきうはちうごくとの500年来の縁があり信義に関わることでもあるため、関係断絶し難い旨これまでお願い申し上げるも、お聞き取りなられず、このまま(明治政府の御達書を)御請けすると藩中の人士動揺極まりない状態になるため、政府に対して正式に使者をたてて嘆願し、そこでも却下されるのであれば、御請しますとの旨三司官を通じて(松田に)お願い申し上げるも、それすら却下されてしまったので、とても今すぐ御請けすることができません」になりましょうか。

この回答は全権委任の松田の立場を顧みない無礼極まる内容として、松田道之が激怒するのも無理はありません。そして松田はこのまま交渉しても埒が明かないと判断した上で、帰京の準備に取りかかりますが、ここに至ってついに藩王は覚悟を決めます。

明治8年の明治政府の「御達書」に対する琉球藩の対応のまずさは、喜舎場朝賢著「琉球見聞録」だけではなく、同様の内容が東恩納寛惇先生の「尚泰候実録」にも記載されてますが、その最大の理由は(これまで当ブログでも何度か指摘してきましたが)藩王が精神を病んで首里城内に引っ込んでしまったため、三司官らが藩庁首脳たちが決断できない事項について、琉球藩のトップとして適切な判断を下せなかったからです。

だがしかし、同年9月7日になって、ようやく藩王尚泰は「御請けする」との決断を下します。ただし、その決断がとんでもない騒動を引き起こしてしまいますが、それはまた次回のお楽しみということでご了承ください(続く)。