富永清さんと回状

今回は、ひさびさに沖縄ヤクザ関連の記事をアップします。実は、昭和49年(1974)10月、全琉を震撼させた「旭琉会理事長射殺事件」に関連する新聞史料をチェックしていたところ、ついうっかり気になる小記事を見つけてしまいました。

すでに当ブログにて紹介すみではありますが、昭和49年はブログ主が確認するかぎり、富永清さんが初めて新聞に登場した年でもあります(昭和49年9月23日付琉球新報朝刊9面)。そして同年11月9日付琉球新報に、「三百枚の絶縁状」と題した小さな記事に富永さんの名前がありましたので、その内容についてブログ主なりに調子に乗って解説します。ただし引用記事は若干不正確な記述もありましたので、訂正の上全文を紹介します。沖縄ヤクザネタ大好きの読者の皆さん、是ご参照ください。

三百枚の絶縁状 / 県警旭琉会幹部宅で押収

集団リンチ事件(昭和49年9月20日)をきっかけに、新城理事長射殺事件(同年10月24日)が起き、その後暴力団旭琉会の内部抗争は激化しているが、県警はさる二日、那覇市や沖縄市などの旭琉会事務所や幹部の自宅十六カ所を一斉捜索した際、沖縄市美里五三一、取締役、富永清(二八)の自宅で、上原勇吉一家に対する絶縁状三百枚を押収した。

発見された絶縁状は上原勇吉(四五)、上原秀吉(三四)ら二人の顔写真が入ったはがきで、その他に※山城長栄(三四)、松茂良〔弘〕(三四)、伊江朝勝(三六)ら三人の名前が刷られている。この絶縁状は日本各地の暴力団に送られる寸前に押収された。はがきの差出人は旭琉会会長・仲本善忠、副会長・具志〔向盛〕、大城善一、理事長・又吉〔世喜〕が名を連ねてあり、内容は上原一家は今後一切、旭琉会とは関係が無いというもの。組から配られる絶縁状は他の組でも身柄あずかりを拒否するもので暴力団の間では回状と呼ばれている。沖縄連合の旭琉会が組織され、絶縁状が作成されたのは今回が初めてといわれる。(昭和49年11月9日付琉球新報朝刊13面)

※山城長栄は同年12月に旭琉会組員に刺殺され、遺体は糸満市摩文仁の崖の下に放置された。

記事の内容でまず目につくのが県外ヤクザ組織向けの「絶縁状」が作成されたという点であり、もちろん理事長殺害事件に関して上原組に対し(旭琉会として)厳しい姿勢をアピールすべく回状が作成されたわけですが、この事実から仲本会長をはじめとして旭琉会の主要メンバーたちが日本式の組織運営を強く意識していた点を指摘しておきます。それはつまり、(復帰後は)アメリカ世時代ような先輩・後輩関係のノリで那覇派や山原派がグループ化されていた時代ではなくなったことを意味しているのです。

次に回状が富永清さんの自宅で押収された点ですが、この事実から全国の組織に対する回状発送の責任者は富永さんであった可能性が考えられます。その理由はいたって簡単で、富永さんは本土の体育会系に精通し、なおかつ大和口(標準語)がペラペラだったからです。というのも全国のヤクザ組織から旭琉会に回状の電話問い合わせ等があった際、当時の旭琉会のなかで富永さんほど適任者はいなかったはずです。実際に上原勇吉が山口組の幹部と面会した際、彼らは勇吉の言葉が理解できなかったという話もあり、本土と沖縄ヤクザとの言葉の障壁は現代では想像もできないほど高かった実情は無視できません。そしてそのことが

富永さんが旭琉会の中で出世した最大の理由であり、

復帰後の旭琉会が、本土組織との関係を極めて重視していた裏返しともいえるかもしれません。

最後に記事内の肩書と住所についても言及しておきますが、同年9月23日の記事によると、富永清さんは理事の肩書で住所は沖縄県山里と明記されています。ところが同年11月9日の記事では彼は取締役として沖縄市美里531の住所が記されています。なお、沖縄市美里の住所の場合、近所には(同郷の先輩である)糸村直亀さんの自宅があり、参考までに関連記事を紹介します。

暴力未遂で暴力団員を逮捕石川署

【石川】石川署は二十七日午前零時五十三分ごろ沖縄市美里五二九、糸村直亀さん(四三)方横広場で住所不定、無職、旭琉会石川支部組員の知花正吉(二六)を婦女暴行未遂の容疑で逮捕した。(昭和49年11月27日付琉球新報夕刊3面)

もちろんいまとなっては昭和49年当時、富永さんの自宅がどこか調べる術はありませんが、参考までに沖縄市美里であれば、だいたいこの辺であるという写真を紹介しますのでご参照ください(終わり)