名称の考察 – りうきう編

今回は少し真面目に “りうきう” の名称について考察します。その理由は(ブログ主が確認した限りですが)おもろそうしには “りうきう” という単語が見当たらないとの思い付きからです。15世紀以降は国際的に “琉球” の呼び名が広まったにも関わらず、沖縄最古の文献である「おもろそうし」に見当たらないのは変だと思いつつ、ブログ主なりに考えをまとめてみました。読者のみなさん、是非ご参照ください。

まず、『沖縄大百科事典』の下巻(ナ~ン)、851㌻の“琉球 りゅうきゅう” に関する記述を要約すると、以下の通りになります。

1,りうきうの名称は中国大陸に住む人たちによって名づけられた。

2,表記は、流虬、流求、瑠求、琉球と複数あったが、中国大陸において朱元璋が明の皇帝に即位した1368年以降、琉球の表記法が確立する。それを決定づけたのが1383年(洪武16)察度王に下賜した鍍金銀印である。

3,それ以降、王や王族などの支配者階級は支配地域のことを “りうきう” と呼んだ。

大雑把にまとめると、りうきうの呼称は王や王族たちが使用する “行政用語” なんです。当時のりうきうと中国大陸の国力は例えると少年野球とMLB以上のレベル差がありますので、彼らが中華の皇帝から賜った “琉球” の呼称を喜んで使っていたことは容易に想像できます。

試しに国内外で “りうきう” の呼び名が使われていた史料を2件ほど紹介します。1つは永享11年(1439)、足利義教が尚巴志に寄せた文書でその内容は以下の通りです。

文くわしく見申候しん上の物たしかにうけとり候ぬめでたく候

永享11年 御印判

りうきう國のよのぬしへ

もう一つは以前にも紹介した『かたのはな碑』で、この碑文は尚清王時代(即位1527年~1555年)の物で間違いありません。

大りうきう国中山王尚清は、そんとんより、このかた、21代の王の御位を、つきめしよわちへ、天より王の御名をは、天つき王にせと、さつけ、めしよわちへ、御いわひ事かきりなし(かたのはな碑)(右漢訳分、大琉球国中山王尚清、自従舜天降来、二十一代之王孫、天賜聖号、為天下王)

だがしかし、国内の王や王族以外の住民が “りうきう” の呼び名を使っていたのか、それがさっぱりわからないのです。ただし「おもろそうし」に “りうきう” という単語が見当たらないことと、りうきうという名の神女の存在が確認できないので、神女達の間では使われていなかったと思われます。

*おきなわという名の神女は「おもろそうし」に明記されています。

ちなみに “りうきう” の呼び名が一般化したのは、興味深いことに明治12年(1879)の廃藩置県後なんです。そのきっかけになったのが明治26年(1893)9月15日に誕生した “琉球新報社” で、翌27年(1894)の日清戦争の報道によって “琉球” の語句が全沖縄に広まります。

それによって “りうきう” の名称は沖縄県の “別名(古語)” として定着し、組織や団体で使用する分には差し支えないとの慣習が確立します。そして現在でも “琉球銀行” や “琉球ゴールデンキングス” など様々な団体が “りうきう” の名称を使用してます。

ブログ主が極めて興味深く感じたのは、かつて中華の皇帝より賜った “りうきう” の名称が、日清戦争の敗北を以て沖縄社会に根付いた点です。しかも廃藩置県後の明治時代において

ヤマト化に最も貢献した琉球新報社が結果としてりうきうの名称を定着させた

事実は強調してもしすぎることはないと思うブログ主であります。

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