修羅の邦りうきう – コザその1

昨今の新型コロナウィルス感染症対策に絡んで沖縄県立図書館が休館中のため、残念ながら新ネタをゲットできないブログ主は、暇つぶしにこれまで蒐集した新聞記事を再チェックしたところ、予想通り素でエグい内容の記事を多数発見しました。

今回はその中から昭和37年から復帰後にかけてのコザの街の修羅度について言及します。改めてアメリカ世時代のコザ民の凄さを実感したブログ主ですが、ただしおクスリ関連は(うちあたいする人が現存すると思われるため)後日改めて紹介しますのでご了承ください。

最初は昭和37年3月10日付琉球新報7面からオフリミッツの記事を紹介します。

50軒にオフリミット / 中部の歓楽街、理由は売春

【コザ】このところ中部の米軍相手の歓楽街ではオフリミッツのうわさが絶えなかったが、米軍当局では8日から9日にかけコザをはじめ、石川、具志川村平良川のバー、キャバレーなど50余軒に大幅なオフリミッツをいい渡した。オフリミッツの理由はバー、キャバレーなど米軍相手の営業所で

売春行為を行ない、米兵に性病をうつした

というもので、コザの場合8日は19軒、9日は17軒のバー、キャバレーが憲兵隊とコザ署員の立ち合いで、オフリミッツの掲示板が打たれた。(下略)

説明不要、当時の歓楽街で何が行われていたか伺える良記事です。ちなみに隣に配置されている “また米軍児童が発砲” の記事もじわじわくるものがあります。

次に昭和36(1961)年あたりから問題化した少年犯罪に関するニュースですが、この件に関してコザ市民の興味深い証言がありますので紹介します。(昭和38年2月19日付琉球新報朝刊6面)

コザ市議会は問題視せよ

こともあろうにコザに暴力団の親分である「喜舎場朝信を救う会」ができた、と〔昭和38年2月〕15日付きの琉球新報朝刊は報じています。毎日の新聞は切った、はったの暗い記事で埋まり、暴力事件の続発も不思議ではなくなった。つまりニュースとしての価値が薄らいだかの印象を紙面から受ける者ですが、さすがに暴力団後援会の記事にはドギモを抜かれました。

コザに住む者にとって、小さな交通事故や不良少年たちの盗みは話しのタネにもなりません。

といいますと読者はおかしく思えるかも知れませんが、私のいわんとするのは基地の中心地だけにいろいろな犯罪が多く、しかも市民は余程の事件でもない限りびくともしないということを強調したかったのです。(下略)

“喜舎場を救う会” については以前に取り上げましたので今回は言及しませんが、実際に少年犯罪に関する記事を発見しましたので一部紹介します。(昭和37年5月18日付琉球新報夕刊3面)

非行少年の実態調査 / コザ署 / 100人余りを補導

【コザ】コザ署少年係りでは青少年保護育成週間と去る14日から始まった春の防犯運動で18日までに補導した100人あまりの青少年の実態調査をしている。これから夏にかけて青少年が盛り場をうろつくようになるが、これは非行の第一歩であるとして、家庭状況から本人、まわりの実態をつかみ、市役所、学校にも連絡して悪のめばえないうちに未然に防ごうというもの。

青少年育成週間中に補導されたのは80人あまりでこの中54人がコザ十字路、センター、ゲート通りの盛り場をうろつき米兵にガムを押し売りしたり金をせびったり、靴みがきを強要していた。

同少年係りでは父兄を呼んで調査しているが、父兄の中には夫婦いながら子どもにアルバイトさせているのもおり、これは少年法に違反するものとして父兄に厳重な警告をしている。このほか貧困のためやむなく子どもにアルバイトさせているのもいるが、これについては市役所、学校にも連絡、救済の方法を考えている。

なお同少年係りではこれから夏にかけて、盛り場をうろつく青少年がふえる傾向にあるので、今後さらにパトロールを強化して、補導にのり出す方針。

もうひとつ、コザ署と地区防犯協会などが連携して街頭取り締まりを実施したニュースも紹介します。(昭和37年5月24日付琉球新報朝刊7面)

24人を補導 / コザ署 / 盛り場取り締まり

【コザ】コザ署は22日夜、地区防犯協会、管内各小中学校の関係者と、抜き打ちの合同街頭取り締まりを行ない、24人の問題児を摘発した。

この日は、午後9時に防犯協会の〔仲村〕兼仁会長ら会員9人、各学校から補導主任など2人ずつ、それに訪問教師らも加わって、コザ署に勢ぞろい、同署からも新里署長はじめ、捜査課員、外勤係りなどが参加。総勢約60人が、7班にわかれて、コザ市内の盛り場を中心に取り締まりに出かけた。

これは、春の防犯週間のしめくくりとして、防犯協会、学校が自主的に企画、少年の補導と、問題児の早期発見につとめ、その対策を研究しようというもの

深夜アルバイト児の実態、未成年者の飲酒喫煙、その他、長欠児や要保護少年などの摘発を取り締まり対象において、実施した。

ここまではよくある話かと思われますが、ここからはブログ主もびっくりの証言を紹介します。証言者は仲村兼仁コザ地区防犯協会長で昭和38年11月6日付琉球新報朝刊7面から抜粋します。

“喜舎場は無関係” 暴力団公判コザ防犯協会長が証言

民政府大陪審で審理されているコザ派喜舎場朝信(40)新城義史(34)にかかる又吉世喜殺人未遂、布令違反、証人脅迫事件の九回目公判が〔昭和38年11月〕5日午前中に引きつづき、午後一時半から開かれた。

弁護人側証人としてコザ派極南会員新田三郎、コザ地区防犯協会長、仲村兼仁氏(弁護士)、コザ派糸数宝昌の3人が出廷、証言した。

コザ地区防犯協会長仲村兼仁氏は「喜舎場朝信は警察、防犯協会へは大いに協力し、暴力団とのつながりがあるとは思えない」と証言、弁護人側から1960年コザ地区防犯協会が防犯功労者として喜舎場朝信に贈ったときの表彰状が提出され、陪審員の注目を集めた。(下略)

また仲村兼仁氏は「喜舎場さんは前はずい分暴れたそうだが、最近は非常におとなしくなったということを警察の方からよく耳にする。警察や防犯協会に協力し防犯につとめていた。

1960年には防犯功労者として警察、防犯協会の全員一致で喜舎場さんを表彰したこともある。

喜舎場さんが暴力団とつながりがあるとはとても思えない。検事から喜舎場さんは前科4犯だと聞き、驚いている」と証言した。

つまり

毒を持って毒を制するを地でおこなっているわけで

当時のコザの街のカオス度の高さが伺えます(つづく)。

 

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