上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ

以前当ブログで掲載した翁長助裕さんの論文の記事が予想の斜め上を行くアクセス数を獲得し、ブログ主は大いに驚いた次第であります。Facebook ページで賀数仁然さんはじめ多数の“いいね”の反応があり、50年前の論文とはいえ現代の沖縄県民も“うちあたい”しているんだなと実感せざるを得ませんでした。

今回は明治42年(1909)に当時の沖縄新聞に掲載された伊波普猷先生の論文『沖縄人の最大欠点』を掲載します。この論文を読んだときに「確かに謝花昇の没落は“下り日は拝まぬ”という支援者の態度にあったな」と思いつつ、現代の沖縄県民も当時と同じ欠点を内包しているのか、考えるきっかけになると大変ありがたいです。

沖縄人の最大欠点

沖縄人の最大欠点は人種が違うということでも無い。言語が違うという事でも無い。風俗が違うという事でも無い。習慣が違うということでも無い。沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易いという事である。沖縄人は兎角恩を忘れ易い人民だという評を耳にする事があるが、これはどうしても弁解し切れない大事実だと思う。自分も時々こういう傾向を有っている事を自覚して慙愧に堪えない事がある。思うにこれは数百年来の境遇が然らしめたのであろう。沖縄に於ては古来主権者の交迭が頻繁であった為に、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌する*のが気がきいているという事になったのである。これに加えて久しく日支両帝国の間に介在していたので、自然二股膏薬主義を取らなければならないようになったのである。

「上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ(アガリティダド・ヲガミユル・サガリティダヤ・ヲガマヌ)」という沖縄の俚諺は能くこの辺の消息をもたらしている。実に沖縄人に取っては沖縄で何人が君臨しても、支那で何人が君臨してもかまわなかったのである。清朝になって靖南王*が叛した時の沖縄の使節は清帝と靖南王とに奉る二通りの上表文を持参して行ったとのことである。不断でも支那に行く沖縄の使節は琉球国王の印を捺した白紙を用意していて、いざ鎌倉という時にどちらにも融通のきくようにしたとの事である。この印を捺した白紙の事を空道(くうどう)*といい伝えて居る。これをきいて或人は君はどこからそういう史料を探してきたとか何か記録にでも書いてあるのかと揚足を取るかも知れぬ、しかし記録に載せるのも物にこそよれ、沖縄人如何に愚なりと雖、こういう一国の運命にも関わるような政治上の秘密を記録などに遺して置くような事はしない。これは古来琉球政府の記録や上表文などを書いていた久米村人間で秘密に話されていた事である。(附録63~64頁参照)。兎に角昔の沖縄の立場としてはこういう事はありそうな事である。

「食を與ふる者は我が主也(モノクヰユスドワーオシユゥ)」という俚諺もこういう所から来たのであろう。沖縄人は生存せんがためにはいやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。このご都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深く深くその潜在意識に潜んでいる。これはただ沖縄人の欠点中の最大なるものではあるまいか。世にこういう種類の人程恐しい者はない。彼等は自分等の利益のためには友も売る師も売る場合によっては国も売る。こういう所は志士の出ないのは無理もない。沖縄の近代史に赤穂義士的の記事の一頁だに見当たらない理由もこれで能くわかる。しかしこれは沖縄人のみの罪でもないという事を知らなければならぬ。

とにかく現代に於ては沖縄人にして第一この大欠点をうめあわす事が出来ないとしたら、沖縄人は市民としても人類としても極々つまらない者である、然らばこの大欠点を如何にして補ったらよかろうか。これ沖縄教育家の研究すべき大問題である。しかしさしあたり必要なる事は人格の高い教育家に沖縄の青年を感化させることである。陽に忠君愛国を説いて陰に私利を貪るような教育家は却って沖縄人のこの最大欠点を増長させるばかりである。自分は当局者がこの辺の事情を十二分に研究されることを切望する(明治42年2月21日稿沖縄新聞*所載)

林世巧(官生新垣)辞世之詩二首

古来忠孝幾人全憂国思家巳五年一死尚期存社稷高堂専頼弟兄賢。

廿年定省半違親自認乾坤一罪人老涙思兒変白髪赤聞●耗更

引用:国立国会図書館デジタルコレクション『古琉球』107~110頁より抜粋

*頌する:文章や言葉で人の功績などを褒め称える。

*靖南王:耿精忠(? – 1682)のこと。“靖南王*が叛した時”とあるが、これは1673年の三藩の乱を指す。

*空道(くうどう、こうどう):琉球から中国に捧呈する文書に文字を書かないで、琉球国王の印を押しただけの白紙の文書のこと。進貢船には二道の空道を携えて行く慣習であった。それは吉凶いずれでもその時その場にうまく適する表文を認める準備であった(沖縄大百科事典より)

*沖縄新聞:明治38年(1905)に那覇で創刊された沖縄で2番目にできた新聞社。寄留商人の機関紙として有名。大正3年(1914)に廃刊。