“ゴミ” はごみ箱へ

今月5日の玉城知事のツイッター発言による炎上騒ぎは記憶に新しいところですが、ブログ主は “権力の監視” がお題目の既存マスコミが一連の騒動をどのように報じたかをチェックしてみました。

前回の記事 “必要以上批判話法と隠ぺい体質” でも言及しましたが、この案件はSNS上での炎上騒ぎと既存マスコミの報道タイミングが一致しています。そして興味深いのが今年2月の森発言の時に比べ、報道姿勢に著しい差異が認められることです。その前に今回の騒ぎを起こした玉城知事のツイッターの問題点を要約すると、

  • 県民には自粛要請を行ないながら、自分は同居以外の家族とBBQを行なった。
  • ツイッター文中の「山の神」は奥様に対する卑称とも受け取られ、公人が使う言葉ではない。

になりましょうか。ここまでは読者のみなさんもご存じかと思われますが、実は他にも問題が発生しているのです。それは令和3年(2021)5月8日付琉球新報2面によると、

(”単眼複眼 / 知事、従来の説明覆す / 議会追及、政治問題発展も” から一部抜粋)玉城知事は、多い時で6人がその場にいたことも明らかにした。県が会食を同居家族に限るよう呼び掛けていることとの整合性について、「見知らぬ方との飲食を控えてということ」と主張し、家族とのバーベキューは「いわゆるビーチパーティー的な不特定多数が集まるバーベキューと性格が異なる」との見解を示した。数人の記者が手を上げていたが県は質疑を打ち切り、会見は通常より短い20分で終了した。(下略)

(“「山の神」真意 / 知事回答せず” から一部抜粋)玉城デニー知事がツイッターに「GWの予定は実家と山の神の実家庭でのBBQ」と投稿した件で本紙は7日午前の会見後、知事に「山の神」の真意を聞いたが回答しなかった。広辞苑によると、山の神は自分の妻の卑称。玉城知事は以前にも同じ言葉を使っていた。(下略)

と記載があり、つまり玉城知事は今回の騒ぎに対して自らの説明責任を十分に果たしていないのです。言い換えると、

既存マスコミや県民を完全に見下した対応を行なった

わけであり、今回の騒動における最大の問題はまさにこの点にあります。

それを踏まえて琉球新報記者のツイッター、および本日(10日)の大弦小弦をご参照ください。

大弦小弦

同僚たちがコメント取材を依頼した医師は、いずれも匿名を希望したという。玉城デニー知事が大型連休中にバーベキューをしていた。感染対策上問題はなかったか。相手が知事であっても、専門家として正面から指摘してほしかった。▽メディアは「相手が知事だからこそ」特に厳しく批判するのが仕事だ。本紙が1面トップで問題を報じた日は、読者から「これくらいのことで、やりすぎだ」という指摘が届いた▽県民の暮しに縛りをかける知事の発言は、何度も1面トップで報じてきた。その本人が自らの言葉に反して行動していた責任はやはり重い▽知事はさらに、回避を求めていた「同居家族以外との会食」について、自身が実行した後になって「見知らぬ方との飲食」のことだったと言い換えている。「命を危険にさらす」と強く警告していたのに▽釈明も半端だ。「不快な思いの人がいたことは反省したい」と、受けとり方の問題にすり替えた。よくある紋切り型。非は率直に認めて仕切り直しすべきだ。コロナ禍で知事の発言を誰も信じなくなったら、県民全体の命が危険にさらされる▽メディアはこうして権力を監視する。そのメディアは市民に監視されている。「やりすぎだ」「生ぬるい」。指摘が足元を見つめ直す機会になる。緊張はするけど、ありがたい關係だ。(阿部岳)(令和3年5月10日付沖縄タイムス1面)

今年2月の森発言に対する報道姿勢は “筆誅” と呼ぶにふさわしいえげつない論調が紙面を埋めつくしました。今回は記者会見の場で玉城知事と県庁サイドに “コケにされた” にもかかわらず、この”生ぬるい” 所感には激しい違和感を覚えざるを得ません。SNS上での失言癖があり、奥さんに対して卑称を公言し、しかも説明責任を十分に果たしていない為政者に対しては、森発言を基準にすると

玉城知事に対して辞任を要求するのが報道機関として正しい在り方ではないか

と声を大にして言いたくなります。そして相手によって適用ルールを自由自在に変更して “権力の監視” を自認する既存マスコミに対し、世間一般から

“マスゴミ” 呼ばわりされるのも無理はない

と痛感したブログ主であります。