これが暴力団の宿命

今回は、最近さぼり気味だった “沖縄ヤクザ関連” の記事をアップします。昭和50(1975)年10月16日早朝、識名霊園前で又吉世喜理事長(当時)が射殺されて46年が経過したわけですが、今回はそれに関連して琉球新報に掲載されていた解説記事全文をアップします。

当時の記事をチェックして印象的だったのは、あまりにも意外なタイミングで事件が発生したため、県警もマスコミもこの事件をどのように捉えていいのか迷っている点です(後に上原組組員の犯行であることが判明)。そのあたりの迷いが記事を読むとハッキリ伺えますので琉球新報の解説記事を是非ご参照ください。

旭琉会又吉理事長射殺事件内部抗争激化へ

組織暴力団沖縄連合旭琉会の内部抗争事件は、ついに理事長の又吉世喜の殺害まで発展し今後、旭琉会組織の分裂、存続がどうなるのかというところまできたといえそうだ。さきにもう一人の理事長だった新城喜史が同じ抗争事件で射殺されてから約1年目。しばらく対立抗争もなく表面上、静かに見えたが、虚を突かれて理事長の又吉も4発の弾を受けて殺された。一連の暴力団抗争で6人目の犠牲者が出たわけだが、親分が殺されたという配下の者の怒りも強く、こんどの事件をきっかけに対立抗争が激化することは必至。場合によっては旭琉会内部が那覇派と山原派に2分することも予想される。

両理事長殺害にまできた背景には、やはり表面上、おだやかに見えた旭琉会内部に、いぜん山原派と那覇派という目に見えない対立感情があったことだ。もともと両派は犬猿の仲にあり、とくに山原派の大幹部・新城と那覇派の親分・又吉の間は反目し合っていた。

それが復帰前、本土の組織暴力団が沖縄進出をねらっているとの情報が流れ、バラバラでは組織の大きい本土勢にはとうてい勝てないと見た新城が又吉に呼びかけて、山原、那覇両派が合併しようと「沖縄連合旭琉会」を結成するまでにこぎつけた。

山原派の仲本善忠を飾りトップにして会長に、新城、又吉は理事長におさまり均衡人事を図って発足した。発足式には820余人の組員が参加、盛大に行われた。

ところが3年余もたたないうちに内部亀裂が始まったのだ。それが昨年5月ごろの新城と同じ組員の上原勇吉との個人的対立で、2か月後の集団リンチ事件をきっかけに上原一派60人の集団脱走まで発展した。

そして昨年10月下旬、新城が宜野湾市内のクラブで射殺され、この事件を機に対立は激化し、主流、反主流の抗争はドロ沼化してきた。親分の新城を失った配下の者は必死になって上原を捜す一方、上原の配下3人を射殺し北部の山中に埋めた。

新城一派の仕返しも終わって対立はしばらく静まるかに見えたものの、こんどは理事長の又吉がねらわれ、ついに死にたえた。又吉はこれまで2度、3度と襲われながら、行きのびてきた。昭和36年に自宅に新城らから「飲みに行こう」とさそわれ、西原村の旧飛行場跡に車で連行され、そこでショベルなどでメッタ打ちにされて、はうようにして逃げ帰った。その翌年にも新城らの依頼した本土の殺し屋に短銃を撃ち込まれ、ひん死の重傷を負ったが、その時も急所が外れて生命には別条なかった。不死身の男とふしぎがられた又吉ではあったが、暴力団の執ようなねらいうちにあい大きな組織を抱える理事長又吉もついに実弾を受けて倒れた。これが暴力団の宿命というものだろうか。(昭和50年10月17日付琉球新報12面)