あいろむノート – 方言札(7)

(続き)6回にわたって掲載しました “あいろむノート – 方言札” シリーズも、今回のまとめを以て〆ますが、これまでの当ブログにおける説明にて「方言札」は日清・日露戦役後に新しい時代に適応すべく、教育現場から誕生した件についてご理解いただけたかと思われます。

ただし、当時の日本政府や沖縄県当局が積極的にかかわった証拠はなく、罰札制度の運用は “自発的” に行なわれたと見做しても誤りではありません。ちなみに標準語普及に関して沖縄二中(現那覇高校)の興味深い事例がありますので、読者の皆さん是非ご参照ください。

一九〇〇(明治三三)には、県立一中の学友会が「方言禁止」を積極的に採りあげ、県立二中では、一九一〇年(明治四三)開校早々、監督会が開かれ、「普通語励行方法」について協議し、「罰札制度」なるものを結語した。ここで注目すべきことは、この会には教諭は「只一人監督の新垣先生が加わったのみで、全く生徒の自発的提案によって協議された(沖縄県立第二中学校校友会『みどり‐二十五周年記念』十七ページ、傍点引用者。なお、一中の方言問題院ついては『沖縄の教育風土史一八二ページを参照されたい)ということである。(沖縄縣史第一巻716㌻より抜粋)

ただし、方言札の運用はやはり問題があったと言わざるを得ません。それは巷の通説のような「国家主義に絡めとられた」や「植民地的支配の象徴として沖縄県人に押し付けられた」などの解釈ではなく、「方言を使わないこと、それ自体が目的となってしまった」ことなんです。

分かりやすく説明すると、方言札の運用目的は「より広い社会圏に適用するために標準語を円滑に使いこなすこと」ですが、たしかに方言を使わないことで標準語の “知識” は向上するでしょう。ただし、それが即標準語のコミュ力アップにつながらないことに、当時の教育者たちは気がつかなかったのです。実はこの点こそ “方言札” の歴史的教訓なのです。

なお、現代において日本の支配云々に絡めての解釈が通説になってしまった最大の理由は、我々が昭和初期の沖縄県人の “痛み” を忘れてしまったからに尽きます。その “痛み” とは県外(移民先も含む)において、社会活動を営む上で必要不可欠な「標準語」でコミュニケーションが取れない「辛さ」ですが、標準語を流暢に使いこなす現代人には理解できない辛さであるのは間違いありません。

参考までに、外間先生は(ラジオ沖縄の)座談会において「統一国家ができ上がる過程で、言語教育が真っ先に取上げられることは沖縄だけの特殊事情ではなく、世界的に普遍的な歴史事実なんですね。」と言及しております。たしかに国民国家の成立過程で言語は統一化され、その過程で滅びつつある言語など数えきれないほどあります。つまり沖縄だけが「国家主義の犠牲」になったわけではないのです。

だがしかし、ブログ主なりに方言札の経緯ついて詳しく説明しても、バラエティ番組の「方言禁止記者会見」に過剰反応した人達の耳には届かない現状があります。なぜなら彼らは「沖縄は日本によって差別され続けている」との命題を堅持すべく、それに合致する(と思われる)出来事に(喜んで)飛びつく性質の持ち主だからです。ということは、命題に反する(歴史的)事実には脳内スルースキルが自動的に発動する仕組みになっている訳です。

「心焉に在らざれば視れども見えず(礼記)」の一例とも言えますが、ハッキリ言って「沖縄は差別がー」の人達はそんな生易しいものではありません。実は、彼らは方言札ではなく

ほうげんふらー

を首から下げていることに気が付いていない “痛い” 人達なのです。そしてその言動の香ばしさゆえに、ブログ氏は遠くから彼らの言動を生暖かく見守っていこうと決意を新たにした次第であります。(終わり)