【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その1

以前に当ブログで『当間重剛回想録』を参照に、“キャンプ・シュワブ誕生の経緯”の記事を掲載しました。今回は新に史料を入手できましたので、誕生の経緯について再考します。ちなみに何故史料を集めたかといえば、単純にキャンプ・シュワブは地元が“誘致”したのか、それとも“新規接収の応じた”のか気になったからです。

まず調べたのが、土地連(沖縄県軍用地等地主連合会)はこの案件をどのように記載しているのかです。理由は当時の土地問題における「一括払い反対」「新規接収反対」の運動の中核が土地連だったからです。該当部分を抜粋しましたので、是非ご参照ください。(ちなみに桑江朝幸さんの著書を読むと、この案件に対し明らかに不快感を抱いています)

土地連のあゆみ = 創立三十年史 = 通史編 99~100㌻参照

(五)一括払いで賛否両論

一九五六年(昭和三十一年)十月二十五日、比嘉(秀平)主席が狭心症で急逝、十一月一日、後任に当間那覇市長が任命された。

土地問題は小康状態にあったが、十二月に入ると久志村辺野古の新規接収問題が表面化した。約七八万坪の契約を軍と地主が進めているという報道に住民は衝撃を受け、成り行きを注目した。

十二月二十一日、久志村の村長と地主代表は行政府を訪れ、(当間)主席に次のようないきさつを報告した。「この問題は昨年一月二十八日にさかのぼるもので、久志を中心に実弾射撃をするという通告に始まっている。これには村民が強く反対、緊急村会集会による陳情などで一応阻止することができたが、昨年七月、民政府副長官に呼ばれて接収を予告された。それでも村長としては測量立入りにも応ぜず、これを拒否、地主たちもこの時分までは反対していた。しかし、万一伊佐浜や真謝部落のように強制収用となるとすべての権利が失われるという不安と、基地をもつことによって、村の経済がよくなるということで地主が傾いた。こういった事情から、村長の職権で地主の意志をどうすることもできず、批判を覚悟の上で契約に応ずることにした。特に経済的に不遇にある久志村としては、基地設定によって経済転換もでき、また村有財産(山林)の一五万坪も、これまで何ら収入とならなかったが、賃貸料が入ることになり、村財政も楽になる。」(中略)

上記の内容は、おそらく昭和31年12月22日の沖縄タイムスの記事からの引用で間違いないでしょう。比嘉久志村長の談話の書き写しは下記参照。

昭和31年(1956年)12月22日 – 沖縄タイムス

納得に対する批判は覚悟 

比嘉久志村長談 この問題は昨年一月二十八日にさかのぼるもので、久志を中心に空陸から実弾射撃をするという通告に始まっている。これには村民が強く反対、緊急村会招集による陳情などで一応阻止することができた。ともかく人口五千人の久志村の八〇%以上が山に依存しているわけで、その上山林が演習地となった場合、山入りできないばかりか、急斜面の土砂がくずれて田畑をつぶし、中、南における接収以上の損失をうける。ところが一時中止となっていたが、昨年七月モーア副長官に呼ばれて地図を示され、次いで他の町村長らと共に(米)民政府に呼ばれ、接収を予告された。それでも村長としては、測量立入りにも応ぜず、これを拒否し続けた。この時分は地主自体も新規接収に強く反対していたが、万一伊佐浜や真謝のように強制収用となると、すべての権利が失われるという不安と、基地をもつことによって、村の経済がよくなるということで地主が傾いた。こういった事情から、村長の職権で地主の意志をどうすることもできず、軍用地問題が、まだはっきりしたメドもつかないうちに納得することに対する批判を覚悟している。とくに経済的に不遇にある久志村としては、基地建設によって経済転換もでき、また村有財産(山林)の一五万坪も、これまで何らの収入とならなかったが、賃貸料が入ることになり、つまり無から有を生ずるということになるので、村財政も楽になる。何れにしても、今度の問題は、どうすれば村民が幸福になれるかを考えた場合からの結論で、契約書に署名する段階にまできている。

【参考】昭和31年(1956年)12月22日 – 沖縄タイムスの記事。

これらの史料だけを見ると、

1 ブログ主が以前引用した『当間重剛回想録』の252ページ – 辺野古が軍用地契約の章では昭和30年(1955年)の新規接収予告については記載がない。

2 実際に新規接収予告は2回あった(昭和30年1月28日と7月22日)。

3 当初は(久志村として)反対、ただし地主が(契約に)傾いたことで、村として新規接収に応じる形で契約。

4 “誘致”という言葉はこの段階では出てこない。(12月22日以降の沖縄タイムスの記事にも“誘致”の文字は現時点で見当たらない)

になりましょうか。今回は昭和30年(1955年)の新規接収予告に対する久志村の態度について、史料を掲載します。1月28日の新規接収予告についての史料は確認できませんが、同年2月13日の琉球新報には以下の記事が掲載されていました。書き写し文をご参照ください。

今度は久志が反対 – 米軍演習地の設定

久志村では、このほど久志岳を中心とし百八号および百二十二号線道路にわたる地域を米軍演習地として使用したいと申し入れがあったので、十一日、臨時村議会を招集して協議した結果、次の理由をあげて反対、近く(琉球)政府および(米)民政府に反対陳情を行うことになった。

▹ 同地域では日常生活の全てが山に依存している実情で演習期間中、入林できない場合は、その日の生活に直接困窮をきたすものが大部分である。

▹ 被害に対する賠償はすると言ってはいるが、微々たるものだと思う。万一被害が拡大した場合、立木が現在の姿にかえるにも少くとも二十カ年余の長期間を要する。

▹ 地形が急傾斜のため爆弾投下又は砲弾を投込まれたら豪雨の場合土砂が流出し河川堤防が決潰、田畑が埋没する恐れが多分にある。

▹ 恩納の山中でも不発弾で不慮の災難にあった先例がある。生活のためぜひ山に入らねばならないので万一の事故発生を憂える。

【参考】昭和30年(1955年)2月13日 – 琉球新報の記事。

上記の久志村の反対理由は、たしかに筋が通っています。実際に新規接収は行われなかったのですが、同年7月22日以降、米民政府は新たに接収予告を出して、土地収用に動きます。(続く)


【参考】 辺野古誌 – 辺野古区事務所(平成十年四月発行)から、該当箇所を抜粋。

(中略)ところが、このような半農半林の静かなシマ(辺野古)に一九五五年一月、米軍は久志村を通して、久志岳・辺野古岳一帯の山林野を銃器演習に使用したいとの連絡があった。軍側の一方的な使用通告に驚いた村では、臨時議会を招集して山依存の高い住民の生活権を守るに反対決議をして、(米)民政府等の関係機関に陳情を行うと共に阻止行動を起し、その時点では一応の成果を得られるかのように見えた。(第一五章基地と辺野古  631 ㌻より抜粋