カーストを超越して成立した「万葉集」
ある国民の特徴を見るとき、彼らが「何の前において万人は平等と考えているか」ということが、おおいに参考になる。
たとえばユダヤ=キリスト教圏においては、「万人は神の前において平等」という考えが圧倒的である。だから中世の宗教画を見ると、ローマ法皇が地獄に堕ちたりしている。どんなに教会的に高位を占める法皇でも、神の目から見れば奴隷と同じなのである。
またローマは「法の前においては平等」というのを建前としていた。ローマ帝国はその城内に多くの異民族を含んでいたので、それをローマの忠実な市民と化すためには、公平の基準を「法」に置かなければならなかった。そして近代の欧米諸国においては、だいたいこの二つの「平等」を拠りどころにして人々は生きていると思う。毎日の生活においては法に頼り、死後のことは神の正義に頼るというふうに。
それでもし毎日の生活の場において法の正義が信じられなくなったときには、マフィアに頼ったりする。
『ゴッドファーザー』でも、一人娘を強姦され、重傷を負わされたイタリア系の移民の葬儀屋は、その強姦者たちが良家の息子ということで、執行猶予を与えただけで実刑をかさないアメリカの法廷の「平等」に疑問を持ち、ドン・コルレオーネの家にいって「正義」を求める。ゴッドファーザーは、法のあるべき平等の実現者として行動し、手下の者に強姦者たちの顔が二目と見られなくなるほど殴らせるのだ。殺してしまわないのは強姦者たちも例の娘を殺してはいないからである。それでこの小説を読むと、マフィアの首領が憎めないどころか立派な人に見えてくるわけである。
では、古代の日本人たちは、自分たちが何の前において平等であると感じていたのであろうか、それは超越的な神の前における平等でもなく、法の前における平等でもなく、詩、すなわち和歌の前において平等だと感じていたように思われる。われわれの先祖が歌というものに抱いている感情はまことに独特なものがあって、よその国おいてはあまり例がないのではと思われる。
たとえば上古の日本の社会組織は、明確な氏族制度であった。天皇と皇子は「皇別」、建国の神話と関係あるものは「神別」、帰化人の子孫は「蕃別」と区別されたほかに、職能によって氏族構成員以外の者も区別されており、武器を作るものは弓削部、矢作部とか、織物を作るのは服部とか錦織部とかいう風であった。これは一種のカースト制と言うべきであろう。このカースト制の実体はよくわからないし、現在のインドのように厳しかったかどうかもわからない。しかしカーストはカーストである。
ところが、このカーストを超越する点があった。それが和歌なのである。
『万葉集』を考えてみよう。これは全20巻、長歌や短歌などを合わせて4500首ほど含まれている。成立の過程の詳細なところは分かっていないが、だいたい、各巻ごとに編者があり、その全体をまとめるのに大伴家持(?-785)が大きな役割を果たしていたであろうと推察される。大伴氏の先祖である天忍日命は、神話によれば(これが当時の社会においては最も重要なことであった)、高魂家より出て天孫降臨のときには靱負部をひきいて前衛の役を務めるという大功があり、古代においては朝臣の首位を占め、最も権力ある貴族であった。
その大伴氏が編集にたずさわっていたとすれば、カースト的偏見がはいったとしてもおかしくないはずである。それがそうではないのだ。この中の作者は誰でも知っているように、上は天皇から下は農民、兵士、乞食に至るまではいっており、男女の差別もない。また地域も東国、北陸、九州の各地方を含んでいるのであって、文字通り国民的歌集である。
一つの国民が国家的なことに参加できるという制度は、近代の選挙権の拡大という形で現れたと考えるのが普通である。選挙に一般庶民が参加できるようになったのは新しいことであるし、女性が参加できるようになったのはさらに新しい。しかしわが国においては、千数百年前から、和歌の前には万人平等という思想があった。
『万葉集』に現れた歌聖として尊敬を受けている柿本人麻呂にせよ山部赤人にしろ、身分は高くない。特に、柿本人麻呂は、石見国の大柿の股から生まれたという伝説がり、江戸時代の川柳にも「99人は親の腹から生まれ」(百人一首に人麻呂がはいっていないことを指す)などというのがある。これは人麻呂が素性もしれぬ微賎の出身であることを暗示しているが、この人麻呂は和歌の神様になって崇拝されるようになる。
このように和歌を通じて見れば、日本人の身分に上下はないという感覚は、かすかながら生き残っていて、現在でも新年に皇居で行われる歌会始めには誰でも参加できる。
毎年、皇帝が詩の題、つまり「勅題」を出して、誰でもそれに応募でき、作品がよければ皇帝の招待を受けるというような優美な風習は世界じゅうにないであろう。これが、このごろよく言われる「日本教」のもとなのかもしれない。
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